《タイお茶散歩 2006》メーサローン(4)

7月19日(水)4.メーサローン2日目(1)朝

朝は7時まで寝てしまった。それ程に涼しく寝心地が良い。前日のあのタチレイリバーサイドホテルの暑さが嘘のようであった。外へ出ると空が明るくなりだした。また籐の椅子に座ってただ山を眺める。静かな朝の訪れである。

レストランに下りていくと西洋人が2組朝ごはんを食べていた。ヨーロッパ人のようだ。家族連れもいる。いつも思うことだが、彼らは子供を大人と同じように何処へでも連れて行く。そして体験させる。日本人でこんな山の中に子供を連れてくる人は稀だろう。日本人にはこの自然を楽しむ方法を知らない。子供達もゲーム機で一日中過ごすことになってしまう。

女主人がかゆを持ってくる。鶏肉が入っている。胡椒が利いているのが美味い。マントウも食べる。タイ人は味のないマントウにタイ風の味付けをするが、私はそのまま食べる。流石に味気ない。

部屋に戻ってまた山を眺める。こんなに山だけを眺めている時間はこれまでにあっただろうか??特に変わった所のない風景ではあるが、気持ちの落ち着きが違う。霧が晴れてくる。山の頂にパゴダが見える。下の部屋では西洋人が出発の準備をしている。彼らは何処へ行くのであろうか??そして何を見るのであろうか??

反対側では従業員が掃除をしながらおしゃべりしている。実に楽しそうだ。濃い霧が懸かる中、決して明るくない状況で彼らは底抜けに明るい。国民党残党の村と呼ばれたこの村の歴史は一体どうなっているのか??

(2)国民党の村

レストランに下りていくと主人がやって来た。変な日本人が来たと思ったのか私を確認するように話し掛ける。しかしこちらが国民党関連の話をすると口をつぐんでしまう。烏龍茶が出る。

今月はチェンライ県の県庁を団長とした視察団に参加して上海へ。杭州も日帰りして、お茶の売込みを図った。8月には中東ドバイへ行く。昨年も一昨年も展示会に参加している。中東人は太っている人が多いので、減肥茶として売り込むと売れ行きがよいという。

今後も展示会があれば何処へでも行く。ここのお茶を広めるためには努力が必要である。実に謙虚な姿勢である。その内東京へも行きたいが今の所そのチャンスはない。奥さんもやって来る。メーサローンのよさを知って欲しい。日本語の現地フリーペーパーにも書かれたこともあるが、日本人はあまり来てくれない。1月中旬には桜も咲くのだが・・??

国民党の人々は20年前に武装解除した。タイ政府はタイ国籍を与えるといっているが、20年経った今でもまだ貰えていない難民扱いの人もいる。徐々に進めているが20年は長い。既に戦争を行なう雰囲気は何処にもない。しかし内面では未だに戦いが行なわれていることを知り複雑な気持ちとなる。

見るとレストランの柱の影で何かを焼いている。網の上には餅があった。香ばしい匂い。タイ北部とミャンマーのシャン州、食べ物もほぼ同じ、文化も近い物がある。いや、雲南省も含めて元々は同じ文化なのである。それがあの戦争で全てが変わってしまった。残念なことである。

しかし考えてみればミャンマーも悲劇である。ようやく戦後イギリスから独立したのに、10年以上に渡って国民党軍に居座られた。その対応に使った時間、経費がミャンマーの近代化を遅らせ、また少数民族の独立運動を助長させてしまった。国の統一が十分に出来なかった事がその後の運命を決めた。麻薬が蔓延った原因もここにあった。ついでに言えば、ミャンマー経済を疲弊させたのは、華僑、印僑を排除した結果でもある。彼らは東南アジアでもその国の経済を牛耳っており、決して歓迎されている訳ではない。しかし必要悪なのである。

国土統一の遅れが、軍事政権の長期化を招き、経済が衰退した。悪循環である。その悪循環を作り出したのが、今目の前にある元国民党なのである。国民党軍もミャンマーも共に被害者なのか??それともどちらかが加害者なのか??歴史は残酷である。

(3)泰北義民文史館

10時半になったが、雨が止まない。今日の4時の飛行機でバンコックに戻ることになっている。さて、何をしようかと思っていると女主人が『泰北義民文史館へ行ったら』と車を出してくれた。しかしその車はベンツなのである。この家はやはり裕福なのであろう。

車で10分、昨日歩いた道を走り、町を抜けるとそこに広大な敷地があった。街外れに新しく建てられたことが分かる。雨の中で訪れる人はいない。館の入口の前に大きな手のモニュメントがある。許願池と言う名前が見える。池から地から湧き上がる国民党軍を表しているのだろうか??

泰北義民文史館に入る。左手に戦史陳列館がある。中に入ると後ろから管理人が電気を点けてくれるが、それでも暗い。彼は私の所に寄って来て『資料があるよ』と北京語で伝える。150バーツ。それを渡すと自分の仕事は終わったとばかりにさっさと行ってしまう。

寂しく一人で見る。写真が沢山貼られている。李国輝、段希文、雷雨田など歴史に名を留める将軍が写っている。しかし彼らがどんな活動して、そしてここがどんな役割を果たしたのか、全く予備知識がない状態で淡々と眺めるだけである。

帰国後国境内戦後この辺りで一体何が起こったのか??何故この辺りがゴールデントライアングルと呼ばれ、アヘンとの関係はどうなのか??是非知りたいと思った。本を探したがなかなか見付からなかった。そして『ゴールデントライアングル秘史』(鄧賢著 NHK出版)と言う本と出会った。

その本には想像を絶することが書かれていた。内戦に敗れた国民党軍は台湾に撤収した主力部隊の他にミャンマーに逃れた雲南軍がいたのである。陸路であったが、易々と踏み越えたわけではない。ミャンマー軍との抗争、共産党軍との戦い。その中で家族も共に道に迷い、食べ物もなく、行き先も分からない。

そして台湾蒋介石政権との微妙な関係、翻弄される基盤。更には内部の権力抗争。その中を生き残っていった人々。その過程では食べるためにアヘンを運ぶ護衛を勤めて、そして最後にはタイ軍の義勇軍として、老体に鞭打ち、年少の兵隊を出して、戦わなければならなかった。悲惨な歴史と言わざるを得ない。麻薬王クンサーの存在はそんな中でなんだったのであろうか??必要悪??

中央の建物は愛心陳列館。ここは広い空間に各戦役で没した人々の慰霊札がズラッと並んでいる。263、それは一体何を意味するのか??あまりにも寂しいこの空間、雨音が強くなる外を眺めると槍のような雨が地面突き刺していた。困難な歴史を無言で物語っていた。

車は1時間後に迎えに来ていることになっていた。その時間にはまだ大分あったが、私は館を離れた。正直ずっとそこに居る事には耐えられなかったのである。雨で誰もいない売店、そこでは茶を売っていた。お姐さんが寒いからお茶を飲んで行きなさい、と言って入れてくれた。そのお茶は実に温かかった。

尚ここメーサローンにもお茶の他にコーヒーが作られていた。これは高地の特徴で、お茶とコーヒーはセットのような物なのかもしれない。

(4)昼

ホテルの戻ると12時を過ぎている。1時半にはホテルを出発してチェンライ空港へ行かなければならない。レストランを通ると中国系の人がいた。聞けば何と台湾の茶商だという。態々こんな所までお茶の買い付けか??

丁度商談が終わったらしく、食事が始まるところだった。私は例の焼きそばを頼み、荷物を片付けに部屋に戻る。下に降りると一緒に食事をしようという。残念ながら時間がなかった。それでも話を聞くだけでもよいと思い、焼きそばを抱えて参加した。

どうやら彼らはこの地に共同でお茶を栽培しようとしているらしい。台湾の黄さんによれば、ここのお茶は質も良く、価格が安いため、台湾でも十分に販売可能とのこと。実際喜んで買って行く台湾人がいると言う。台湾にはこの村のお茶が結構入っている。そうかもしれない。黄さんも年に1-2度買い付けにやって来る。レストランにでも卸しているのだろうか??

しかしテーブルを良く見ると驚いたことに同じ顔が2つある。このホテルのオーナーとそのお兄さんは双子なのであった。よく似ているが、一方はホテル経営、茶の販売、一方は茶の栽培とその仕事内容は全く異なる。それを女主人も合わせて3人で力を出し合って運営している。

時間が気になる、がテーブルの上の食べ物はもっと気になる。たけのこ炒め、野菜スープ、納豆を固めたような食べ物も出てきた。どれも新鮮で美味しい。残念ながら途中でタイムアップ。

(5)空港

1時半、ベンツに乗車してメーサローンを離れた。女主人も乗り込んで、一緒に空港まで行くと言う。空港の出店に用事があるらしい。彼女は出発早々に寝込む。私は自分が客なのか彼女の友人なのか分からなくなる。しかしそんなユニークな関係が好ましい気もする。

メーサローンは昨日の茶畑見学でも分かったが、土壌が良いので雨でも流され難い。大陸との違いだろう。霧も良く出るし、茶を栽培する条件は整っている。そんな茶畑を眺めながら、坂を下る。

平地に降りると何故か豪雨に見舞われる。雷も鳴る。しかし車はベンツだ、安心して寝る。1時間で空港へ到着。僅か3日前に降り立った所だったが、遠い昔のような気がした。別れ難い何かがあった。

チェックインは至極簡単、国内線だからか??この空港は僅か一日30便しかない。国際線もない。典型的な地方空港だ。1時間ほど時間が余る。出店に行ってみる。到着した時に立ち寄った店は大きかったが、彼女の店は他の土産物屋に囲まれてこじんまりしていた。お客が何人かいた。皆時間待ちだろうか??

ちょっと太った愛想の良いにーちゃんが店番。将来出店するチェンマイ空港店を任されるらしい。タイ人はお茶に不慣れなので入れる時には敢えて急須を使う。(碗を使っても理解できない??)やっぱり山の方が茶の味が良い。

1冊の本が目に留まる。『被遺忘的泰北美斯樂中国人』というマレーシアの大学教授が書いた北京語の本だ。中を開けてビックリ。何と彼女ら一家の歴史が書かれているではないか??あのプミポン国王より高い位置に掲げられた写真はご主人のお母さんで元国民党軍中尉だったのだ。

そしてあのメーサローンリゾートを作った雷将軍の下、ご主人はホテルの修行を積み、自分のホテルの開いたことも分かった。恐らく彼らは歴史の生き証人なのである。但し一見のお客である私にその重い歴史を簡単に語るわけはなかったのである。慌てて本を買い、別れを告げて飛行機に乗り込む。そして貪る様に本を読んだ。バンコックまでの1時間半、機内食も取らずに読み耽る。

少数民族のおばあさんが孫の赤ん坊をおんぶして乗っている。全く泣き止まない。乗客はいやな顔をするどころか、皆で何とか泣き止まそうとする。菓子を差し出す者、笑わそうと顔を歪める者、微笑ましい光景である。何となく連帯感がある。その理由は??降りる時隣のオバサンから北京語で『あんた、何処の村??』と聞かれるほど、私の顔は中国人になっていたことだろう。

次回機会があれば必ずやこの歴史を学ぼう。

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