福岡、長崎茶旅2022(5)富春庵、鄭成功、大村散歩

午後は富春庵へ向かう。ここは2回目の入宋を終えた栄西が1191年に上陸し、滞在した場所と聞いている。そして栄西がここに茶を植えた、喫茶、製茶法も教えたとの伝承も残っており、記念の茶畑もあった(一応日本最初の茶畑との表示もあるが)。だがこの地で一番重要なのは茶ではなく、栄西が禅宗を伝えたことらしい。

茶畑から下っていくと、そこには『日本禅宗発祥之地』との石碑が置かれており、『千光祖師座禅石』などもある。そして道路の反対側には江戸時代に富春庵を継いだ千光禅寺が今もそこにある。日本で初めて禅が行われたと書かれ、今も座禅会が続けられているようだ。このコロナ禍ではどうだったであろうか。

ここでOさんとは別れ、Sさんの車に乗せてもらい、鄭成功記念館を目指す。大きな門を潜ると、鄭成功が生まれ7歳まで育ったという屋敷跡に記念館があった。係の人が熱心に説明してくれ、鄭成功について日本ではどのように語られているのかを少し理解した。私自身は厦門の大きな鄭成功像や台南の廟など、各地で見ているので、あらましは知っているが、日本で鄭成功に出会うのはこれが初めてであった。古い媽祖像なども安置されている。往時は目前の岸から船で大陸へ出て行ったのだろう。折角なので、千里が浜の鄭成功記念公園にも寄ってみた。ここにある鄭成功像は厦門のそれの小型版のようだった。さわやかな海風が吹く公園で気持ち良い。

最後に街中にある蔦屋という菓子屋に入る。創業が1502年というから古い。代々松浦家に菓子を納めていたらしい。しかも現在の店舗地には、三浦按針が住んでいたとかで、按針の館と呼んでいた。珍しいポルトガルゆかりの菓子などが並んでおり、興味を持つ。店で買って奥の広い座敷で食べられるという贅沢。ここでSさんと話し込み、かなりの時間滞在した。

今晩大村へ行くという私をSさんは親切にも車で送ってくれた。結構時間が掛かり、日が暮れてしまった後、ようやくたどり着いた。Sさんには申し訳ないことをしたが、お菓子やお酒の話などでとても為になった。車中でもずっと話が続き、有難い再会だった。

今晩の宿は地方で頑張っている昔ながらのビジネスホテルだった。夜8時を過ぎており、夕飯を探しに駅まで行くと歩いて6₋7分掛かったが、ちょうど駅前に食堂があり、飛び込む。お客は誰もおらず、もう閉店かと思ったが、運よくまだやっていた。かつ丼を頼むと、予想以上にうまい物が出てきて喜んで食べた。ただ東京ではかつ丼を頼むと、漬物とみそ汁が付いてくるケースが多いが、こちらではみそ汁は出てこない。

6月18日(土)大村を歩く

翌朝宿で朝定食を食べる。ビュッフェより新鮮でよい。午後長崎へ行くまで時間があるのだが、私が大村に泊まった理由はただ『行ったことがない』だと自分で思っていた。駅には観光案内所はなく、ただ地図を眺めた。すると大村氏の居城、玖島城跡があった。更には楠本正隆邸という文字まで見えて、なぜここに来たのがその理由が分かってきた。

朝の商店街は完全に閉まっていたが、これからどれだけの店がシャッターを上げるのだろうか。『砂糖文化を広めた長崎 シュガーロード』などの説明書きが見える。大村宿の本陣跡もある。大村市役所を通り過ぎると陸上の廣中璃梨佳の名前が大きく掲げられていた。その先大村湾を背にして、玖島城跡があった。

公園から登り始めると、第1次大戦中の青島攻略戦で亡くなった佐藤少佐の碑が建っていた。これまで戦争に関する様々な石碑を見てきたが、第1次大戦のものは初めてで、貴重な歴史を学ばせてもらった。勿論近くには戊辰戦争の碑もあり、北伐戦に参加した少年鼓手の像が目を惹いた。本丸跡には大村神社があり、その向こうには大村喜前(キリシタン大名大村忠純長男)石碑と純煕(最後の藩主)の像がある。周囲にはまだ石垣も残っており、城のイメージがある。

そこから少し歩いて行くと武家屋敷街がある。その中に楠本正隆屋敷があった。楠本を知ったのは、明治初めに彼が新潟県知事となり、長岡の梅浦精一(多田元吉と一緒にインド紅茶視察に行き、渋沢栄一に請われて東京商会会議所事務局長を務めた人物)を中央に引っ張った史実からであった。屋敷は意外と広く、庭がきれいだった。

この屋敷の展示を見て、大村藩でも幕末様々な動きがあり、楠本のそれに関わって維新を迎えた経緯が分かる。更に東京府知事から最後は衆議院議長にまでなっているから只者ではない。ただ幕末を中心に彼の資料はあまりないという。討幕運動は紙に残せるような内容ではないということか。大村藩から医学の長与専斎などが出ていることを知る。

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