茶旅 静岡を歩く2022(5)掛川城から菊川へ

菊川駅前まで歩いていくと、関口隆吉像を発見した。あの浅間神社にもあった名前だ。関口は幕臣で初代静岡県知事。牧之原開拓にも尽力したとのことで、現在でも顕彰されているが、一般的に知られていないのは残念だ。ここから東海道線で掛川に戻った。夕飯は掛川駅から少し歩いた食堂で取った。独特のレバニラ炒め、具沢山の味噌汁など、特色ある定食が良い。腹一杯なのに、夜また宿の夜泣きラーメンまで食べてしまった。今日は相当歩いたので、体が欲していたのだろう。さすがに疲れて寝入る。

3月17日(木)掛川で

翌朝は元気に起き上がる。天気も良い。折角掛川に泊まったので、お城周辺を散歩した。桜が咲き始め、これから花見が始まりそうだ。立派なお城を眺めながら堀の脇を歩いていくとお城の脇に2つの石碑が見えた。実は昨年千葉県佐倉に行った際、掛川城に佐倉に関する石碑があると聞いていたので、興味を持って見てみたが、文字が良く読めない。

読める文字の中に、『山田治郎蔵』とある。この人の石碑だと分かったが、それと佐倉は関連があるのだろうか。それが知りたくてすぐ近くにあった図書館へ向かうが、何と9時の開館前だった。よく見ると横には立派な建物がある。確かテレビでも見た報徳社だった。二宮尊徳の報徳思想、これは静岡の人々に受け継がれ、茶業にも関わっているので興味があったが、まずは開館した図書館へ行く。

図書館で石碑について尋ねると『お城の脇なら、お城に聞いたら』と言われ、今度はお城に向かう。入場料を払う受付で聞いてもらったら、『石碑があるのは知っているが、茶業に関しては専門外なのでコメントできない。観光協会に行くように』と言われ、駅にある観光協会へ向かう。ところが観光協会では『その石碑の所在自体が分からないから、まずその場所へ行ってみて何かわかったら連絡する』と言われる。静岡って、歴史が多すぎて、なかなか分からないことが多いらしい。

菊川で

菊川駅まで一駅電車に乗る。駅のすぐ横に報恩寺があることは分かっていたので安心して向かったのだが、ちょっと意外な展開に。ここの墓地内に高林謙三の記念碑があるということだったが、その墓地が見付からない。思い余ってお寺に訪ねると、何と墓苑は歩いて10分の場所にあることが判明。地図をくれたのでそれを頼りに探す。

駅の北側、少し小高くなったところ墓地があり、その一番奥に石碑が見えた。『高林謙三の墓』となっているが、これは本当のお墓が川越にあり、お墓参りが出来ないので、ビジネスパートナーの松下幸作がこの碑を作ったという。供養碑とでもいうべきだろうか。近くで作業していた墓石屋さんが『ちょっと前まで茶工場があって、茶を作っていたよね。最近茶はダメだから、どんどんなくなっていくよ』と寂しそうに語る。この墓地周辺にはまだ茶畑が残っていた。

そこから菊川公園を目指して、また線路を渡る。地図上では近いと思っていたが、何と急な上り坂が待っており、きつい。登りの途中には常葉菊川という野球の強い高校があり、その上に公園はあった。今日も天気が良いので、幼稚園園児が遊び回っている。松下幸作の記念碑があると聞いていたが、見付けた石碑は茶祖栄西禅師のものだった。だが下を見ると、菊川茶業先覚者と書かれており、その中に松下幸作と高林謙三(その他山田治郎蔵、内田三平)の名が見られた。横にもう一つ石碑があり、文字は読み取れなかったが、これが松下幸作顕彰碑であろう。松下は高林が特許を取得した製茶機械に対していち早く生産販売契約を結び、製茶機械の普及に努めている。

最後に駅に戻る途中、旧赤レンガ倉庫を外から見た(予約しないと見学はできないらしい)。1887年原崎原作らによって作られた富士製茶株式会社の倉庫だった。この製茶会社及び原崎原作について、子孫の方が資料を纏めており、その本を購入した記憶があるので、帰ったら見直してみようと思う。

金谷で

また東海道線に一駅だけ乗る。今度は金谷駅で降りた。まずはミュージアムの方へ登っていく。かなり急こう配の上り、そこに家々がある。そこを抜けると広い道路へ出て、更にいくと待ち合わせの食堂がある。食堂の駐車場から下を見ると、大井川と金谷宿方面が実によく見える。川越人足が失業して、その救済のための牧之原開拓という話は昨日読んだばかりだ。

今日はお知り合いとランチを食べることになっていた。この食堂、うなぎがメインらしいが、コロナ禍で予約していないと入れない。お客は我々以外に一組しかなかったが、後から来たお客は断っていた。ここの名物は眺望なのだろう。うなぎのたれはかなり甘めだ。お知り合いの退職祝いで、楽しく食事した。

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