広東・海南大茶旅2017(3)沙面から海口へ

8月24日(木)
沙面散歩

翌朝はかなりゆっくり起き上がる。天気は極めて良く、昨晩の雨は嘘のようだった。ホテルのロビーに行くと、昔使われていたものが展示されていた。建物は新しくなってもやはり老舗ホテルだったのだ。外へ出ると、相変わらず古い建物のオンパレード。まあ、昔の租界をそのまま残しているのだから、いくらでもある訳だ。確か2008年頃にもこの付近に泊まったことがあるが、その頃よりもより商業的になっているのは仕方がないことだろう。

 

腹が減ったが、一人で簡単に食べる店はそれほどなさそうだった。ホテルの横にちょうど麺屋があったので簡単に済ませた。観光地というのは庶民的な食べ物屋がないのが困りものだが、灯台下暗しということか。その後も周囲を散策し続けた。教会などもあり、やはり当時の租界、という雰囲気があった。

 

それから橋を渡って地下鉄の駅へ向かった。今日は昨年紹介されて気に入ってしまった老茶客というお店を訪ねることになっていた。前回はタクシーで連れて行ってもらったので、場所がよく分からず、ちょっと迷ったが、何とか到着した。お店にお客はおらず、柯さんが待っていてくれた。ただ上の階の美容院がが改修工事中で、工事の音が煩かった。

 

それでも彼は丁寧にお茶を淹れてくれた。かなり暑い日だったのだが、そのお茶は濃厚な味わいでありながら、何となく涼やか。さすがに有名な淹れ手が入れるとこうなるのか、と感心した。相変わらず茶器も清代の骨とう品で見事だった。やはり彼と一緒に汕頭辺りを旅してみた気分になる。実はこの辺の茶文化が素晴らしいと何度も聞いていたのだが、一人で行っても今は見られないだろうと思っている。次回は潮州料理を一緒に食べようと言って別れた。

 

地下鉄で戻り、ホリデーインに向かった。ちょうどここにIさん夫妻がチェックインしているはずだった。フロントでIさんは、と聞くと、すぐに部屋に電話を掛けてくれた。ここでは彼女は有名人なのだ。部屋に行ってみるとちょうど今着いたばかりだという。空港から近くまでバスに乗り、そこからタクシーを拾おうとしたが、なかなか捕まらず、ようやく捕まえた運転手は道を知らなかったらしい。今や中国でよくある光景だ。

 

Iさんと外へ出て、いつもの店で夕飯を食べる。この付近、まだ古い店が残っているのだが、徐々に新しい店、チェーン店に押されてきているようだ。数年後には無くなってしまうのではないかと寂しく思う。部屋に戻り、プーアル茶を淹れてもらい、何となく落ち着いて話す。このホテル、以前はVPNなしで簡単にネットが繋がっていたが、今や難しくなっているようだ。私のホテルで繋がらないのも当然だ。これからどうなるのだろうか。

 

8月25日(金)
海南島へ

翌朝は早く起きて、空港へ向かう。地下鉄はラッシュ時で混んではいたが、何とか乗れた。広州空港で国内線を利用するのは実に久しぶりかもしれない。なんだかすごくきれいに見える。時間があったので朝食にケンタッキーの粥セットを食べてみる。30元以上とかなり高い。支払いはアリペイで。

 

飛行機は海南航空。思い出すのは今から8年ぐらい前、息子と二人で海南島に遊びに行き、帰りが北京の大雪に遭遇。フライトが飛ばない中、海南航空はホテルの部屋と夕飯を提供してくれ、プチリゾート気分を味わったことだ。30度の海南島から夜中の3時に零下4度の北京に降り立った時の寒さと言ったらなかった。海南航空の印象は良い。

 

今回のフライトは海口まで1時間ちょっとだから、機内サービスも何もない。あっという間に海口空港に降り立った。何と海口に来るのは2000年以来、17年ぶり2度目。前回は仕事で、天安門事件の際に趙紫陽の懐刀の一人であったと言われる人物に会いに行ったことが何とも懐かしい。

 

空港には陳さんの部下が迎えに来てくれていた。空港から市内までは約60㎞、1時間ほどかかるという。天気は良く、空はすこぶる青い。途中まで建物もあまりなく、昔の中国を思い出させた。だが市内近くには、既に高速鉄道の駅さえ見られ、海南島も他の中国と同じようになっていることを予感させた。

 

ホテルも予約しておいてくれ、すんなりチェックインした。海口のホテルだから安いだろうと思っていたが、そんなことはなかった。ホテルの周囲には食べ物屋などもなく、ちょっと歩いて見る。広州より暑い。これでは長くは歩けないと思い、横道にあった食堂に入る。海南島には海南チキンライスはないが、文昌鶏がある。これはこれで十分に美味い。値段も流石に安い。

 

午後迎えの人が来て、歩いて10分ぐらいのところにある陳さんのオフィスに案内された。陳さんの会社は茶葉の輸出入を行っており、当然ながら茶の輸出の歴史には詳しい。ここで紅茶を頂きながら、ひとしきり海南紅茶の歴史を聞く。流れとしては先日の英徳とほぼ同じだが、その担い手が違っていた。こちらは中国の屯田兵、兵団の開拓者たちだったのだ。

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