極寒の湖南湖北茶旅2016(8)万里茶路の重要拠点 襄陽

暗くなってきたので、いよいよ武漢かと思っていると、最後にもう一つ行くところがあるという。何とそこは博物館だと。こんな時間に空いている博物館などないだろうと言ったところ、萬さんは『私設博物館でオーナーは知り合いだから問題ない。むしろ是非見て欲しい』というのだ。そこは高速道路を降りてほど近い、元は学校だった場所らしい。人気はない。

 

中に入って驚いた。ものすごい数の展示品がある。天目茶碗や陶器の破片から近代の蓄音機まで、相当古い歴史的な物から近代の物まで、これは私設というレベルではない。何とそこには萬さんのコレクションも一部置かれているらしい。『置くところがないので、ここに展示している』というから驚きだ。今や中国では、このよう私設博物館が1万以上もあると言われて、さらに驚く。入場料も取らないとのこと。このような収蔵品は確かに歴史を保存するという役目を担っているが、同時に現代生活に飽きた、お金持ちの趣味、とも言え、何とも複雑な思いがした。

 

その夜、漢口に戻り、いつもの宿でチェックインしようとしたが、予約がないと言い出す。昨日の朝チェックアウト時に明日の夜戻ると言ってあったのに、この始末だ。情けないとしか言いようがない。ただ今回のフロントは『次回の予約も含め、きちんと引き継ぐ』と言ってくれたので、まあいいか。疲れたので早々に寝る。

 

1224日(土)
襄陽へ

 

翌朝は5時に起きる。ホテルの食事は6時からだが、残念ながらその前にチェックアウトとなる。今日は漢口駅7時発の列車で襄陽へ向かうことになっていた。私の目的を聞いた萬さんが、特別にアレンジしてくれた。ただ彼自身は行けないので、地元の人に頼んでくれている。

 

地下鉄で漢口駅へ行こうとしたら、何と駅が開いていない。武漢の地下鉄は6時半かららしい。6時からなら、間に合うと思ったのにがっかりだ。仕方なくタクシーを拾って向かう。この駅も以前来ているので、もう慣れているが、それにしても古いのに大きな駅だ。まあ先日の武昌駅も地元の人が迷うほど大きかったが。

 

7時ちょうどの動車に乗り込む。冬の湖北は本当に寂しいところだ。北の方へ向かうというだけで、昨日までとも心持が違う。いや、同行者がいないからだろうか。荒涼とした大地、緑のない土地を列車はひたすら走っていく。途中停まる駅も殆どなく、大きな街も見受けられず、約2時間半で襄陽に到着した。まるで武漢からこの街だけのために鉄道が敷かれているような錯覚を覚えた。

 

7.
万里茶路の跡がない街

 

何故襄陽に来たのか。それは万里茶路の重要拠点だったからと、教えられたからだった。萬さんの紹介で、李さんが迎えに来てくれた。李さんは公務員の傍ら、地元の歴史を発掘し、必要があれば保存する活動をしているという。早々に車で川沿いに連れていかれる。『この辺が、昔水運の起点となった場所だ』と指さされた場所には何も見出せるものはなかった。

 

僅かな痕跡を求めて川辺へ行く。ここが長江最大の支流と言われる漢江が流れる場所、そして更に支流との合流点になっていた。漢口から来た物資はここで仕分けされ、四方に船か馬で運び出されたという。僅かに残る、積まれた古い石に、何となく港を想起させるしかない。

 

それから古い街並みが残る場所へ行く。狭い路地の両脇に家がある。100年以上前の建物もあるという。その一軒に入ると、5代目だという男性が『昔は布などを商って儲かっていたらしいよ』という。その家も含めて、その多くが再開発の対象になっており、李さんのグループはその歴史的価値を見出し、保存運動をしているようだ。周囲を見渡すと、高層マンションが建ち始めている。もう風前の灯火だろうか。この街の歴史的価値、それを見出すうえでも万里茶路の歴史は重要ということだ。

 

次に学校へ向かった。普通の学校に見えたが、その門の脇の壁が凄い。200年ぐらい前に建てられた同郷人の会館跡だという。李さんはこちらの研究で本も出しているので、実に詳しい。万里茶路に登場する山西商人と陝西商人、往時は二大勢力だった彼らが、共同で作ったのが山陝会館だった。学校の敷地内に入ると、わずかに舞台と鐘楼が残っており、その壁にはその名が記されていた。

 

商人たちは必ずここへ立ち寄り、商売上の商談や、一般情勢の情報交換などを行っていたという。確かに中国中に同郷者のための会館はあるが、これほど明確なものは少ないと思う。李さんによれば、このような会館が完全に残っているのが社旗にあり、今日はこれからそこへも行ってみるというので、心惹かれた。

 

因みに付近は回族の住民が多いようで、羊や牛の肉を捌くあの帽子を被った人々がいたのは、何かの因縁だろうか。恐らくはここの貿易に携わっていたのは、山陝会館の商人ばかりではなく、回族もいたことだろう。そして彼らは馬を使ってここから物資を西へ運んだのではないだろうか。この回族ルートも興味深い。

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