【西単付近】2008年7月6日
夏がやって来た。6月まではオリンピックの為に雨を降らせており??例年になく雨が多い、そして涼しい夏だったが、7月からはオリンピックムードを盛り上げる必要もあり??快晴、そして暑い。といっても先週出張した香港に比べれば気温が高くても湿度が低い。木陰に入れば何となく爽やかな風が吹き、何とか散歩が継続できる。これぞ、北京。
1.西単双塔
地下鉄で西単へ。7月からは手荷物検査が導入されたと聞いていたが、建国門も西単も検査は全くなかった。心配ない場所なのだろうか??兎に角全部を検査していては大混乱必定。駅を出る。目の前に文化広場があるはず、だったが、何と全て覆いが掛けられており、前が見えない。これもオリンピック用の改装だろうか??
実はこの広場の辺りにはかつて九層と七層の2つの塔があった。金代に元刑場だったこの場所から夜な夜なうめき声が聞こえる、との話から鎮魂のために寺を創建。元の大都築城の際はこの塔を避けて城が築かれたと言われている。
残念ながら解放後長安街拡張のため、2つの塔は取り壊されて、今はその面影を偲ぶものも無い。西単は元々庶民で賑わう街。特に近年は若者が多く集まり、東京で言えば原宿のような雰囲気を持つ。原宿には明治神宮があり、西単には双塔があった。何かの偶然だろうか??
2.都城隍廟
西単を北へ向かおうとしたが、暑さボケか西に歩き出す。民族文化宮の前には『西蔵今昔』と書かれた看板が出ており、大チベット展が開かれている。4月末からとあるから、どうみても政府が自らの政策を正当化するためのものであろう。あまり見る気が起こらない。
民族飯店、工商銀行本店の前を過ぎ、復興門内大街から太平橋大街を北へ。直ぐに左に曲がると成方街がある。ここは人民銀行本店の裏手になり、北側は比較的古いアパートが並んでいる。都城隍廟はこの辺りにあったであろうことが想像される。城隍神とは城の堀や壁の神である。唐の時代あたりから全国の城で城隍神が祭られた。但し祭っている神は場所によりマチマチ。城内で悪いことをした人間はあの世でもこの神に裁かれると恐れられていた。
木々がせり出した道を歩くが城隍廟に関連しているものは全く見当たらない。その内に最近新しく形成された金融街に出る。ここは政府主導で中国系金融機関が集められている。7-8年前突然にビルが建ち始めた。そしてあっと言う間にビルが群生した。
その中に都城隍廟後殿を発見。しかしどう見ても最近再建されたもの。しかも建物が一つあるのみで中にも入れない。北京市の文物保護単位を表示するプレートだけが古びており、1984年に指定されたことを示していた。
ここは1260-70年代に創建、その後数度の再建が行われたが、民国時代の邪教禁止政策で荒れ果てたようだ。元々は山門、鼓楼などがあったようだが、だいぶ前に後殿だけになっていたようだ。荒れ果てた廟を再建したのは、金融街の発展を願う政府の思惑なのだろうか??ビル群の合間には所々庭園があったりする。
その後金融街を北上し、太平橋大街へ再度出た。立派なしっかりした建物が目に入る。古びているがどっしりしており、風格がある。見ると全国政治協商会議礼堂とある。1949年の建国後建てられたものであろう。久しぶりに社会主義的な建物と出会った。
3.白塔寺
太平橋大街と阜成門内大街の交差点付近に白塔寺はあった。最近は建物が立ち並び交差点からでは白塔を見ることは出来ない。交差点西側に白塔寺の門がある。妙応寺と書かれている朱塗りの門。
寺の内部には両側に四天王を従えて弥勒菩薩が安置されている天王殿。多数の精銅の小さな仏像もケースに入って飾られている。これはミャンマーなどで見る奉納された仏像だろうか??釈迦無二、阿弥陀、薬師の三像が収められた大覚宝殿や七仏宝殿などがある。
そしてその奥に白塔。1096年に建立された仏舎利塔。その後破壊されていたが、1271年に元のフビライがチベット式に改装させた。1279年再建。中国最古のラマ塔。この塔の作成にはネパールの有名な職工アグニが招かれている。現在白塔の前にアグニの像が立っていることからもその功績の大きさが分かる。尚像から見るとアグニはかなりスマートな好青年と言った印象。
塔は約30メートルの高さがあるが、現在は改修中で登って見ることが出来ない。釈迦の仏舎利塔は世界に84000あるが、その中の重要なものは8基あり、白塔はその一つ。尚フビライの頃この塔は赤かったと言う。その後明の永楽帝の時代に白くなったそうだ。清代には北京一有名な廟会が開かれていたとか。また1976年の唐山大地震では塔の一部が傾き、修理中に乾隆帝直筆の箱書きが出てきたらしい。
白塔寺から東に少し行くと交差点の向こう側にクラシックな建物が出て来た。見ると北京大学人民医院。どんな歴史があるのだろうか??
その少し向こうに歴代皇帝廟がある。1530年に建造され、明、清両代の皇帝が三皇五帝をはじめ歴代皇帝、諸葛孔明などの名臣を祭っている。「三皇五帝」とは、神話時代の中国を治めたとされている伝説上の八人の帝王たちの総称(文献によって人物は異なる)で三皇五帝をまとめて祭っているのは中国内でここだけ。広大な敷地ではあるが歴史的な価値はあまり感じられない。1949年以降は学校として使用されていたためか。
4.広済寺
また東に歩くと古めかしい門が。中国仏教教会と書かれている。何だろうかと中を覗く。入場料も無いようなので中へ。丁度よい状態の木々が立ち込め、その奥に天王殿がある。更に行くと非常に静けさが漂う日本的な寺の姿があった。
線香が立ち込め、皆木陰でお経を唱えたり、仏典を読んだりしている。これぞ寺、と言う感じである。横の伽藍には簾の掛かった庫裏が続く。ここに修行僧が宿泊しているのだろう。広済寺は金代の都中都の北の郊外に創建。元代に再建。明代の1457年に改修され、広済寺と名付けられる。清代には皇帝が立ち寄る場所として重視され、重要寺院に指定される。1934年の大火で所蔵の経典などを焼失。1935年には再建され、現在に至る。
鐘楼、鼓楼、天王殿、大雄殿、円通殿、蔵経楼などがコンパクトな境内に並ぶ。極めて伝統的な寺院。この静けさは今の北京には重要。境内には日中韓の仏教友誼樹も植えられており、この地が北京、いや中国の仏教の中心であることがわかる。
5.西什庫教堂
更に東に進んでいくと北海公園が近づく。その手前に西什庫教堂(北堂)がある。1703年康熙帝の寄付で西安門に創建。康熙帝がマラリアに罹り、フランス人神父フォンタネーがキニーネを献上し、治癒したことから建設が認められた。
但し場所が紫禁城に近いこともあり、1887年に西太后により現在の場所に移転された。1900年の義和団事件では、外国人がここ北堂に逃げ込み、義和団が包囲。今でもその銃弾の跡が残っているとか。
結局義和団は八カ国連合軍に撃退され、逆に連合軍が略奪の限りを尽くす。当時北堂の神父ファビエが大官僚立山の屋敷から大金を奪ったことは有名である。尚浅田次郎の『蒼穹の昴』の中に北堂とファビエ神父が登場する。小説ではファビエはベネチアンガラス細工を造り、孤児院で孤児を育てている。真実はよくわからないが、或いは単なる略奪ではなかったのかもしれない。
門を潜るとそこには『勅建』の文字が。これは西太后が公金を与え、建設されて事を指す。当時フランスは革命があり、中国の教会に援助することなど無くなっていた。中国で援助するものも無かったであろう。何故西太后が??
現在の建物は1985年に改修されたもの。ゴシック建築の立派な建物。日曜日の昼時、礼拝堂に人影は無く、中に入る。静けさに包まれていた。疲れた体を休めた。目を瞑ると昔が見えるような気がした。
6.礼親王府
ちょっと南に下ると礼親王府がある。門は硬く閉ざされ、中を窺うことは出来ない。礼親王は清朝の開祖ヌルハチの第二子代善に始まる名家。ヌルハチの長男が早くに亡くなったこともあり、実質代善が長男としてヌルハチを補佐。この代善、礼親王府の建設時には、ヌルハチの命令で各省の総督が皆資金を出したほど、一時は時期皇帝の最有力であったが、ヌルハチ最愛の女性アバガ(ゴルドンの母)と過ちを犯し、その地位を失ったという。
当時の満族の習慣では、皇帝が亡くなった場合、その妻は時期皇帝の妻になるので、二人は早まってしまったということか?因みにアバガは終生ヌルハチの愛を受け、ヌルハチの死に際しては、夫に従い殉死した。その後嘉慶年間に屋敷は焼失。嘉慶皇帝より資金を賜り、再建。1943年には一時満鉄の所有になったこともある。現在は国家機関と民家となっており、内部を窺うことは出来ない。
7.万松老人塔
西四南大街に戻る。北京基督教会がある。ハングルが書かれており、チマチョゴリを着た女性が中に入って行く。ここは1922年洗礼を受けたばかりの青年、後の老舎が住んだと言う教会ではなかろうか?老舎は半年あまりこの教会の日曜学校の主任を勤め、日々磚塔胡同を散歩していた。その様子は著作『離婚』に描かれている。
その北側に万松老人塔があるはずであった。ところが見ていくと建設現場があるのみ。よく見るとその道沿いに門だけがカバーを掛けられて頭を覗かせている。その頭にははっきりと『万松老人塔』と書かれている。
これは塔ではないから、入り口の門と言うことか。とすれば後ろの建設現場の中に塔は埋もれてしまったのか。レンガ造りの九層の塔とあるのだが。建設者はこの門を残すことを条件に許可を得たのだろうか??
万松老人は金末元初の僧。仏教大師の称号を得る大物だが、北京郊外で修行を積んでいた。彼の弟子には有名な元の宰相耶律楚材もいた。僧の死後、弟子たちは郊外に塔を建てたが、明の永楽帝の遷都でこの場所が中心に近い繁華街になってしまう。これは老人にとって不幸だった。その後200年余り行方が知れなかったが、明末に僧が発見、清の乾隆帝時代の僧も、既に朽ち果てつつあったレンガが載った塔を危ぶんだ。
最近でもこの塔は粗末に扱われているようであったが、ついに取り壊されてしまったらしい。残念でならない。












地下鉄2号線、宣武門駅下車。地上に上がると斜め向かいにそごうデパートが見えた。9年前北京に赴任した際、そごうがあるというので一度来たことがある。当時の家からは相当遠かった。結果的にはそれ程の成果が無く(欲しいものがなかった)、空しく帰った記憶がある。
そのそごうの道(宣武門外大街)の反対側をふっと横に入る。達智橋胡同である。近くに近代的なビルがあるのとは対照的に昔ながらの横丁。小さな店が軒を並べていた。この中に楊継盛故居があるはずだが・・??
東西に走る達智橋胡同に対して南北にクロスするのが校場頭条胡同。この通りは既に新しく改装されており、ちょっと雰囲気が違う。その無機質に近い胡同の中に旧雲南会館がある。特に表示も無く、通り過ぎてしまう。
校場頭条胡同の南の突き当りを右に折れると校場口胡同。その中心辺りに洋館風の2階建ての建物があった。現在は鍵屋のようだが、恐らく昔は由緒正しい、何かであったろう。
1921年創立の中国共産党は当初非合法地下活動が中心。機関紙を発行し、その主張を人づてに伝えていく。1925年に僅か半年ではあるが、機関紙『響導』を印刷した場所が広安西里という如何にも目立たない小さな胡同の中にあったという。
本日訪れてみるとその目印と言われる、槐樹の大木は胡同の中ほどに見えたが、そこには既に建物は無く、取り壊されて建替え中であった。周囲は昔ながらの人々が住み、雨が降りそうな薄暗い中、そこ彼処に立って、まるで共産党を守るように、よそ者を監視していた。
雨が降ってきた。傘を差して菜市口大街を東へ渡る。昔はその名の通り菜を売る市場があったのだろうが、今では通り沿いには近代的なビルが建っている。東南の角には大型開発が行われており、近い内に巨大ビルが出現する。
南海会館は1823年在京の南海官僚が資金を出し合い、朝廷高官の旧宅を購入。190室、13の庭を持つ地方会館の中で最大の規模を誇る。
1898年の変法運動は皇帝の権力を高める立憲君主制を主張したが、西大后によるクーデターより僅か100日で潰え、康有為は日本へ亡命する。その後はアメリカ、カナダ、インドを経て、辛亥革命で帰国するも、清朝復古運動に参加した程度、最後は青島で死去。
譚嗣同は康有為の弟子、極めて繊細な人物として描かれている。湖南省瀏陽の出身でこの故居は瀏陽会館であった。幼い頃に家族を亡くし身寄りがなく、一人生き残った彼は『復生』と称される。
譚嗣同故居より西に向かう。この辺りの開発は激しくビルの建設現場を通り抜ける。そして西磚胡同という昔風の胡同を南へ。しかしこの胡同、外壁は綺麗になっており、しかも道の真ん中を工事中。胡同の保存が進んでいるのはわかるが、道の真ん中に掘削車が放置されている光景は何とも醜い。
左右に鼓楼、鐘楼が配される典型的な寺院。獅子像が並ぶ天王殿、中には綺麗な3つの観音があり、その奥の大雄宝殿には布袋様が安置されている。ここには先日の四川大震災の冥福を祈る大法会の横断幕が掲げられている。私もこのお寺に導かれて来た者として、深く手を合わせる。
また北宋の徽宗は金との戦いで捕虜となり、この寺に幽閉された。金代には女真族の科挙の試験も行われたようだ。1734年の大改修後に現在の名前となる。
そして先週末、地震災害への祈りを捧げるために、唐代からある由緒正しい法源寺に初めてお参りに行きました。その3日後、約1年ぶりにLさんと再会。法源寺の話をすると、何と何と彼は15歳からこのお寺で修行していたのです。しかも取り出したお寺の手帳を開くとそこにははっきりと『仏縁』と書かれていました。私がミャンマーに惹かれるわけが少しずつ解明されてきています。
法源寺を出ると横に中国仏教学院がある。ここでは20名の学生が仏教を学んでいる。どうりで法源寺の境内で若いお坊さんを見かけたわけだ。更に学院の横には何故か雑技団のオフィスもある。修行と関係あるのだろうか??
礼拝寺は996年にアラブの学者ナソルディンによって創建された北京最古のイスラム寺院。明の時代に礼拝寺と名付けられた。寺院の殆どは1442年に建造されたもの。寺院の裏には元代にこの地で亡くなった二人の伝道師、モハメド師とアリ師の墓がある。
入り口は小さい。中に入るとおじさんが『チケット?10元』と英語で声を掛けてきた。そして『日本人か、よーし』と何故か日本語が。カメラOKなど親切に教えてくれる。外国人慣れしている。恐らく一般の中国人は来ないのだろう。
寺の入り口には物乞いの女性が二人。さも当然のように手を出してくる。イスラムは女性に厳しい社会なのであろうか??




























いよいよ今年も終わりに近づいている。今日は冬至。中国では餃子を食べる習慣があるそうだが、旧正月も食べて冬至も食べるのか??
その隣の中国芸院は広東料理。かなり香港に近い味で広東語も飛び交う。大使館勤務の西洋人の姿も多い。飲茶が手軽。更に行くと和平茶苑。ここは中国茶を飲むスペース、食事も可能。お茶を飲みながら、公園を眺めるのも一興。家具は骨董。地下には骨董品が多数展示されており、オーナーの趣味が分かる。
国共内戦で公園は荒れ果てたと聞く。1950年代に改修し現在の名称になり、庶民の公園となる。70年には周恩来首相の指示によりここに日中友好の大山桜??が植えられた。どこにあるのだろうか。
東側には神庫が残っており、祭器等が収納されているのかもしれないが、今はそれを知るすべもない。北門の近くには小王府という私のお気に入りのレストランの2号店が綺麗な概観を見せている。
北に向かい朝陽門外大街に出る。小雨がぱらつく。道の南側に『永延帝祚』と書かれた楼牌が見えた。これは新しいものであろう。その南側は既に開発が進んでいるようで、広い道になっている。
中に入ると正面大斎殿には五嶽大帝が祭られている。周囲の伽藍には76の塑像が新たに作られ、収められている。とっても一つ一つ見ることは出来ないが、自分の気に入ったところで皆立ち止まり、拝んでいる。お金に関係ある神さまに人気があるらしい。一番霊験あらたかなのは南宋の岳飛を祭ったものであるらしい。
寿槐という樹齢800年以上の古木もある。冬枯れの木々であるが、それはそれで趣がある。乾隆帝、康熙帝などの碑もあり、なかなか面白い。また日本で言うところの絵馬がある。赤い札であるが、沢山括り付けられている。ここには学問の神様文昌帝も祭られているようで、合格祈願が中心。清代は科挙の試験場が近いこともあり、試験の時には賑わったとか。
東嶽廟を東へ行く。東大橋路の先で道が二つに分かれている。朝陽北路を行く。核桃園という所を入る。ここに戦前日本人墓地があったらしい。現在はかなり古いアパートが立ち並び、墓地の面影など全く感じられない。
今では考えられないほど、日本と中国は緊密であり、人的往来も激しかった。満州浪人のような一旗挙げるための人も大勢いただろうし、駐在員も居ただろう。そしてこの地で亡くなった人も多かったはず。我々はもっと彼らのことを知る必要がある気がする。
地下鉄で崇文門へ行く。地上に上がると立派なホテルがある。見ると『ノボテル新僑飯店』とある。思い出すことがある。私が始めて北京に来た1986年10月、上海に帰る直前に新僑飯店に立ち寄った。目的はラーメンを食べることである。
そしてもう一つ思い出すのが、ドイツベーカリー。A君が『ここのパンは食えるよ』と教えてくれたので行って見ると、何とクリームパンやジャムパンが並んでいる。上海では考えられなかった。上海で食べられるパンを見付けたときにはケース毎買うのが鉄則。それに習い、クリームパンとジャムパンをケース毎買い、汽車の中で食べ、上海の日本人へのお土産にした。
ホテルの裏手に同仁医院がある。そこからが東交民巷である。元代には『江米巷』と呼ばれた米の集散地である。永楽帝時代に、外国から朝貢に訪れる人々をもてなす場所となり、様々な民族衣装に人々が行き交う場所と言う意味で東交民巷と呼ばれるようになる。
その角に突然教会が見えた。かなりがっしりした天主堂。『東交民巷天主堂』とあるが、別名を『聖米厄弥天主堂』とある。聖ミゲル教会??中はシンプル。1901年に出来たとあるようだ。辛中条約の成立後に建てられた大使館員用の教会だったのだろうか??2棟の塔が突き出したゴシック式建築。こちらも中国語、英語などでミサが行われる。
道の横から見ると中はかなり広い。いくつもの建物が見える。崇文門西大街まで出るとその理由が分かる。ベルギー大使館跡との表示がある入り口に武装警察が立っている。そうか、ここは大使館だったのか??但し現在は改修中、いや建て直し中。
そこから連合軍の略奪が始まる。いつの時代も被害者は庶民である。義和団が来ようと連合軍が来ようといいことは無い。
北に歩いて行くとかなり重厚な建物が。金融集団の宣伝が出ている。近づいてみるとビックリ。横浜正金銀行跡、そうか、ここは植民地には必ずある日本の国策銀行があった場所なのである。ちょっとロシア風の三角形で上に丸い塔がある。それを見てこの付近が本当の植民地、租界地であると実感した。
その北側に特徴のある門が見えてきた。あれは何だ??正面に立つとそこには北京市人民政府とある。国旗もはためく。ポケットに手を入れた瞬間、前に立つ武装警察が手を前に突き出し、駄目のマーク。写真を撮ることを想定してのこと。その動きの素早さに背筋が寒くなるが、笑顔で見返すと先方も『分かったか』と言う感じで笑顔になる。やれやれ。
結局人民政府の壁づたいに歩いて行くが壁が高く、殆ど何も見えない。この中に旧日本大使館の建物があるはずだが。清末に当時の著名建築家、真水英夫の設計。西洋バロック様式を主体とした堂々とした造りと聞くが見られずに残念。
長安街に出る。以前より気になっている南池子に行って見よう。道を渡ると綺麗に刈り取られた植木があり、その奥には落ち葉がこれも綺麗に集められている。細いアカシアの並木が赤い壁と色をなしている。
『南池子』と書かれたアーチを潜ると菖蒲河として整備された堀が流れ、柳がしな垂れる。その風景は実に鮮やか。思わず写真に手が伸びる。その横には旧家を改造した『天地一家』というレストランがある。ここはなかなか格式が高い。
南池子大街を北上すると直ぐに朱色の壁が目に付く。中に重厚な建築物である皇史?がある。明の永楽帝が作成した膨大な永楽大典の副本(1562年作成)が保管された場所。本編は明末に焼失、この複製が清代に残ったが、義和団事件の際に散逸。柴五郎はその際永楽大典を目にしたと記している。あまりに分厚さに、大砲車を通すために道に敷いたとの話もあるとか??
周りにはギャラリーがあり、絵画展などが行われている。この場所は静けさが漂い、喧騒を忘れさせてくれるが、何となく物足りない。何となく??
12月に入り、天気が良い。天気予報では最低気温は零下2-3度であるが、日中は暖かい日差しがあり、風も吹かない日が多い。体調管理のためにも散歩に出る必要がある。
家の前から長安街を天安門方面へ歩き、国際飯店の角を北へ。婦女連合中心の裏手は建設ラッシュとなっており、胡同は破壊されつつあった。そんな中でひっそりと残っていたのが、北極閣三条。かなり分かりに難い場所にある。
実は帰ってブログを見ると『清の時代に縁慶禅林という寺があったそうで、 道光17年(1837年)に修築された後、 中華民国の時代には、協和医院の所有となっていました。』とある。そうか、お寺か。なるほど。
更に行くとワンブロック全てが洋館。協和医院の職員住宅のようだ。現在も職員が住んでいるのかどうかは分からないが、中には綺麗に整えられた庭が見え、子供が遊んでいる。日差しを浴びてちょっと優雅な気分になる。
更に行くと胡同の中に突然綺麗なレストランが登場。かなり小さな四合院を活用したもので、ガラス張りで店内が丸見え。かなりお洒落な印象を受ける。『竹魚坊』という名で他の場所にも店があるらしい。結構予約で込んでいるとか。次回機会があればトライしよう。
客はやはりフランス人やイタリア人が多いとか。部屋にバストイレが無い部屋は、庭を通って別の部屋に行く必要がある。冬は寒いのでは??案の定今はオフシーズンでホテル代も半額とか??
写真を撮っていると、門の脇に金ぴかのプレートがある。見ると『高級会員制クラブ』とあるではないか??どうやら誰からがここでレストランやバーを経営しているらしい。最近お金持ちが増えた北京のこと、こういう隠れ家的な場所が出現しているに違いない。
更に北に進む。要するに私は胡同を東西、西東と横へ進み、そこが終わると北に上がり、また一つの胡同を横に進むと言う活動を繰り返している。
その李鴻章の家祠の斜め前ぐらいに、かなりがっしりした建物がある。お茶屋の看板があり、興味を持って覗き込むと、どうやら将棋、マージャン部屋らしい。しかし横にプレートが。『宝善堂薬局跡』。
民国時代の臨時総統も勤めた軍人李宗仁が1965年に北京に戻った後の住居もこの胡同にあった。立派な門構え。李は抗日戦争で大きな戦果を上げ(台児荘戦役)、戦後蒋介石とも袂を分かった大物。周恩来の招きで帰国。
明朝時代は石大人胡同と言う名前であった。武将である石亨はモンゴル討伐に失敗して捕虜となった英宗の復活を遂げる。この胡同の4分の1の面積の家を造ったことから、この胡同を石大人胡同という。その後皇帝が接収、貨幣鋳造の宝泉局となっていたが、1905年に焼失。
先程も同じものがあったが、ここは1918年にロックフェラーが協和医院に投資した際、造られた職員宿舎(完成は1921年)。医院の目の前にあることもあり、こちらの方が規模は大きい。東単北街に面して赤いレンガ造りの建物がいくつも見える。
もう一つ北の胡同へ入る。ここは結構落ち着いた雰囲気。東堂子胡同、ここは少し狭いが木々もあり、胡同らしい。
尚京師大学堂は1898年に変法運動の産物として設立。西洋式の教育の必要性が求められていた。1905年には最終的に科挙制度が停止となり、大学堂の重要性が増し、北京大学へと流れて行く。
総理衛門とは、外国事務を扱う役所。この場所は外交部街の北に位置していることから、その実際の事務が行われていたらしい。
東堂子胡同の北には紅星胡同があると地図にはあったが、実際には殆どが開発中でほぼこの胡同は壊滅している。この北側が金宝街という大通りであり、ホテルやオフィスビルが立ち並んでおり、その影響が大きい。
ガイドブックによるとこのビルの前の道に『王府の井戸』がある。龍の蓋が被せられており、一般公開されているとある。しかしいくら探しても見つからない。何らかの理由で撤去されたのでは??1998年の区画整理の際に発見されたとあるが、現在もオリンピックを前にして改修が繰り返されており、その犠牲??になっただろうか??それともその井戸は間違いだったとして撤収されたのだろうか??
井戸では甘水を売っていたそうだ。1954年まで売っていた記録があるからそう遠くない。それがどうして井戸が埋もれたのか??理由は分からない。
昨日の北京は37度、とうとう夏がやってきた。北京の夏は40度を越える猛暑。日中に散歩するなどはもっての外。朝起きると同時に家を出た。8時前で既に陽が燦々と降り注いでいた。地下鉄2号線で安定門下車。
更に歩いて行くと『国子監』と書かれた石碑が壁に嵌っている。その道には大きな門が出来ていて『成賢街』となっている。牌楼と呼ばれるこの門は北京で唯一残されている。ここが天下の秀才が歩いた国の最高学府。
方家胡同は今もあり、地図では図書館のあった場所には小学校があるはずである。ところが胡同を歩いてみても、小学校の入り口が無い。どうやら廃校になったらしい。再度国子監街を歩いていると方家胡同小学と言う学校があった。恐らくはここに吸収されたのであろう。
国子監の前に来ると何とここも改修中で、正門から入ることは出来なかった。仕方なく隣の孔子廟へ。入り口でおばさんが『全部改修中、何にも見れなけど入るかい??』と聞いてくる。10元払って中へ。
硯水湖、と書かれた井戸がある。かつての文人たちがここの水で墨を磨ったと言われている。水を飲むと頭が良くなると言われており、多くの受験生が訪れるようになった。どれほどの御利益があるかは不明だが、孔廟文物管理所では硯水湖の水は生水なので飲まないように呼びかけているそうだ。
更に奥には大学図書館であるい倫堂。歴史的には魯迅が歴史博物館の展示場とする準備を進めたことがあるが実現しなかった場所である。
孔子廟の向かい側に古びた建物がある。茶芸館、留賢館。中に入ると実に緩やかな時間が流れている。ゆったりとして空間、落ち着いた家具。さすが孔子廟の前にあるだけはある??
ここではお茶を飲むだけでなく、茶芸を教えてくれる。それも日本語で??張さんなき後日本語での講座は中止されているらしい。こんな環境でお茶を習うのは気持ちがよさそうだが。簡単な食事も出来る。日がな一日、ボーっとここに座っているのも良いかもしれない。窓から孔子廟が見える。
擁和宮は北京最大のラマ教寺院。この地は明代宦官の住居、清代は5代雍正帝が親王時代の住居であった。雍正帝は綱紀粛正に極めて熱心で帝位に付いた後、この地に秘密警察を設置、厳しく取り締まった。雍正帝が死去した際、葬儀の後、1年余りここに遺体が安置されたと言う。
瑠璃牌門を潜ると参道の両側に木々が生い茂り、良い風が吹いてくる。天王殿、雍和宮、万福閣共に黄色い屋根瓦、皇帝の色である。本殿の当たる雍和宮には過去・現世・未来を現す3体の仏像が安置されている。万福閣には高さ26m、チベットから運ばれたと言う白檀の一本木による弥勒仏が安置されている。聳え立つこの仏像を見ていると、ラマ教の厳しさを感じる。
思い出すのは20年前、チベットのラサに行った時の事。ポタラ宮に登ると、建物の壁画に何故か一部紙が貼ってある。そしてその紙は捲って見ることが出来るようになっていた。まさに密画と呼ばれた男女混合図などであった。首都北京では公開不可であろう。
そもそもラマ教とは何だろうか??ラマと言う言葉はチベット語で優者を表し、仏の上に位置する。7世紀にインドから伝わった仏教とチベット在来宗教が混在したものらしい。14世紀には宗教革命があり、戒律の厳しい現在の黄教が主となる。ダライラマの属する派である。
11月初旬、最低気温は氷点下に下がり、既に季節は冬。今年の歴史散歩も時期が過ぎたと諦めかけていたが、何と今日は一日時間が取れ、しかも日中暖かい絶好のお散歩日和。この日を置いてはない。北京で一番のお気に入り、寛街を目指した。
地下鉄の新駅、張自忠駅で下りる。地上に出てくると正面に北洋軍閥政府の国務院があった洋館が見える。かなり古ぼけているが、現在も使っているのだろうか??

現在この建物は国務院が使用しており、参観できない。残念。そしてその門の脇には小さな石碑が。『3・18事件』、1926年この地で軍閥政府に対して反日の抗議に立ち上がった学生、市民など47名が殺され、160名が負傷する惨事が発生。魯迅は『民国以来最も暗黒の日』と呼んだ事件である。その後1928年に張作霖が奉天で爆殺され、北洋軍閥は終わりを告げた。
彼は湖南省の出身、1949年に北京にやって来て中央戯劇学院の校長となった。彼は京劇の名優であったと同時に京劇、話劇の指導者であり、この分野の貢献は梅蘭芳をしのぐと言う事である。
更にその隣に和敬公主府と書かれた入り口があったが、きつく閉じられていた。入れないのかな、と思ったが、隣に和敬府賓館と書かれた入り口が。中に入ると何故か『中信証券』の看板が??中信証券は中国有数の証券会社だが、何故ここにあるの??結局本日は休日でオフィスすら分からなかったが、どうやらここで投資信託を売っているらしい。和敬公主は清朝乾隆帝の第3皇女、その由緒ある王府の中でちょっと不謹慎では??
張自忠路を西に歩き、北に折れることが出来る道で曲がる。そこは昔の中国の路地。胡同には曲がって伸びた木が道を塞ぎ、少し歩けば道の両脇で野菜や果物を売っている。以前夜ここを歩いたことがあるが、あの暗さはまるで80年代の中国を再現したセットのような雰囲気があった。


奥の庭には、文天祥自らが植えたとされる棗の木が枝を大きく広げて伸びている。ここは文天祥幽閉の地とされている。この木は文天祥の代わりに今も生きていることになる。
都江園は私が北京に来てから最も多く通ったレストランである。半年で20回以上??このレストランは四合院造りを改造しており、胡同の中にあること、及びメニューがコースのみで注文する手間が省ける上、何よりも料理が美味いことから、北京を知る上で是非とも連れて来たい場所である。
昼間もオープンしているがお客は殆どいないので、顔馴染みの店員に建物の由来を聞くと『100年以上前の建築。清末の将軍が住んでいた。その将軍はモンゴルと戦ったと聞いている。』とのこと。アンティークな家具が配置され、何ともいえない優雅な雰囲気の中で今日は特別にタンタン麺だけを作って貰った。その美味さに思わずスープも飲み干し、後で痛い目にあってしまったが??
先日出張者を案内して夜あるバーに入ると『2階へどうぞ』と言われる。あれ、2階なんかあったけ??と思って階段を登ると何とそこは屋上。薄暗い中に数々の家具が雑然と置かれ、ソファーに腰を落ち着けたが、何とも落ち着かない。月明かりもなく、暗闇バーとなっていたが、東京から来た人間には新鮮だった様だ。
茅盾、この革命作家については良く知らない。恥ずかしい話だが、作品を読んだこともない。『子午』『蝕』『林家鋪子』など有名な作品がいくつもあるのに、一度も手を出さなかった。何故だろうか??
本日中に入ろうとしても門は硬く閉ざされていて入れない。既にレストランだけでなく、ホテル自体が閉鎖された物と思われる。門から中を覗くと柳がしな垂れ、その後ろに洋館が見える。しかしプレートには四合院の文字がある。西側が見事な四合院だそうで、東側には円明園から運んできた築山もあると言う。見られないのが残念である。