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《北京歴史散歩2008》(11)西単付近

【西単付近】2008年7月6日

夏がやって来た。6月まではオリンピックの為に雨を降らせており??例年になく雨が多い、そして涼しい夏だったが、7月からはオリンピックムードを盛り上げる必要もあり??快晴、そして暑い。といっても先週出張した香港に比べれば気温が高くても湿度が低い。木陰に入れば何となく爽やかな風が吹き、何とか散歩が継続できる。これぞ、北京。

 1.西単双塔

地下鉄で西単へ。7月からは手荷物検査が導入されたと聞いていたが、建国門も西単も検査は全くなかった。心配ない場所なのだろうか??兎に角全部を検査していては大混乱必定。駅を出る。目の前に文化広場があるはず、だったが、何と全て覆いが掛けられており、前が見えない。これもオリンピック用の改装だろうか??

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実はこの広場の辺りにはかつて九層と七層の2つの塔があった。金代に元刑場だったこの場所から夜な夜なうめき声が聞こえる、との話から鎮魂のために寺を創建。元の大都築城の際はこの塔を避けて城が築かれたと言われている。

 

残念ながら解放後長安街拡張のため、2つの塔は取り壊されて、今はその面影を偲ぶものも無い。西単は元々庶民で賑わう街。特に近年は若者が多く集まり、東京で言えば原宿のような雰囲気を持つ。原宿には明治神宮があり、西単には双塔があった。何かの偶然だろうか??

 2.都城隍廟

西単を北へ向かおうとしたが、暑さボケか西に歩き出す。民族文化宮の前には『西蔵今昔』と書かれた看板が出ており、大チベット展が開かれている。4月末からとあるから、どうみても政府が自らの政策を正当化するためのものであろう。あまり見る気が起こらない。

 

民族飯店、工商銀行本店の前を過ぎ、復興門内大街から太平橋大街を北へ。直ぐに左に曲がると成方街がある。ここは人民銀行本店の裏手になり、北側は比較的古いアパートが並んでいる。都城隍廟はこの辺りにあったであろうことが想像される。城隍神とは城の堀や壁の神である。唐の時代あたりから全国の城で城隍神が祭られた。但し祭っている神は場所によりマチマチ。城内で悪いことをした人間はあの世でもこの神に裁かれると恐れられていた。

 

木々がせり出した道を歩くが城隍廟に関連しているものは全く見当たらない。その内に最近新しく形成された金融街に出る。ここは政府主導で中国系金融機関が集められている。7-8年前突然にビルが建ち始めた。そしてあっと言う間にビルが群生した。

 

その中に都城隍廟後殿を発見。しかしどう見ても最近再建されたもの。しかも建物が一つあるのみで中にも入れない。北京市の文物保護単位を表示するプレートだけが古びており、1984年に指定されたことを示していた。

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ここは1260-70年代に創建、その後数度の再建が行われたが、民国時代の邪教禁止政策で荒れ果てたようだ。元々は山門、鼓楼などがあったようだが、だいぶ前に後殿だけになっていたようだ。荒れ果てた廟を再建したのは、金融街の発展を願う政府の思惑なのだろうか??ビル群の合間には所々庭園があったりする。

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その後金融街を北上し、太平橋大街へ再度出た。立派なしっかりした建物が目に入る。古びているがどっしりしており、風格がある。見ると全国政治協商会議礼堂とある。1949年の建国後建てられたものであろう。久しぶりに社会主義的な建物と出会った。

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3.白塔寺

太平橋大街と阜成門内大街の交差点付近に白塔寺はあった。最近は建物が立ち並び交差点からでは白塔を見ることは出来ない。交差点西側に白塔寺の門がある。妙応寺と書かれている朱塗りの門。

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寺の内部には両側に四天王を従えて弥勒菩薩が安置されている天王殿。多数の精銅の小さな仏像もケースに入って飾られている。これはミャンマーなどで見る奉納された仏像だろうか??釈迦無二、阿弥陀、薬師の三像が収められた大覚宝殿や七仏宝殿などがある。

 

そしてその奥に白塔。1096年に建立された仏舎利塔。その後破壊されていたが、1271年に元のフビライがチベット式に改装させた。1279年再建。中国最古のラマ塔。この塔の作成にはネパールの有名な職工アグニが招かれている。現在白塔の前にアグニの像が立っていることからもその功績の大きさが分かる。尚像から見るとアグニはかなりスマートな好青年と言った印象。

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塔は約30メートルの高さがあるが、現在は改修中で登って見ることが出来ない。釈迦の仏舎利塔は世界に84000あるが、その中の重要なものは8基あり、白塔はその一つ。尚フビライの頃この塔は赤かったと言う。その後明の永楽帝の時代に白くなったそうだ。清代には北京一有名な廟会が開かれていたとか。また1976年の唐山大地震では塔の一部が傾き、修理中に乾隆帝直筆の箱書きが出てきたらしい。

 

白塔寺から東に少し行くと交差点の向こう側にクラシックな建物が出て来た。見ると北京大学人民医院。どんな歴史があるのだろうか??

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その少し向こうに歴代皇帝廟がある。1530年に建造され、明、清両代の皇帝が皇五帝をはじめ歴代皇帝、諸葛孔明などの名臣を祭っている。「三皇五帝」とは、神話時代の中国を治めたとされている伝説上の八人の帝王たちの総称(文献によって人物は異なる)で三皇五帝をまとめて祭っているのは中国内でここだけ。広大な敷地ではあるが歴史的な価値はあまり感じられない。1949年以降は学校として使用されていたためか。

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 4.広済寺

また東に歩くと古めかしい門が。中国仏教教会と書かれている。何だろうかと中を覗く。入場料も無いようなので中へ。丁度よい状態の木々が立ち込め、その奥に天王殿がある。更に行くと非常に静けさが漂う日本的な寺の姿があった。

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線香が立ち込め、皆木陰でお経を唱えたり、仏典を読んだりしている。これぞ寺、と言う感じである。横の伽藍には簾の掛かった庫裏が続く。ここに修行僧が宿泊しているのだろう。広済寺は金代の都中都の北の郊外に創建。元代に再建。明代の1457年に改修され、広済寺と名付けられる。清代には皇帝が立ち寄る場所として重視され、重要寺院に指定される。1934年の大火で所蔵の経典などを焼失。1935年には再建され、現在に至る。

 

鐘楼、鼓楼、天王殿、大雄殿、円通殿、蔵経楼などがコンパクトな境内に並ぶ。極めて伝統的な寺院。この静けさは今の北京には重要。境内には日中韓の仏教友誼樹も植えられており、この地が北京、いや中国の仏教の中心であることがわかる。

 5.西什庫教堂

更に東に進んでいくと北海公園が近づく。その手前に西什庫教堂(北堂)がある。1703年康熙帝の寄付で西安門に創建。康熙帝がマラリアに罹り、フランス人神父フォンタネーがキニーネを献上し、治癒したことから建設が認められた。

 

但し場所が紫禁城に近いこともあり、1887年に西太后により現在の場所に移転された。1900年の義和団事件では、外国人がここ北堂に逃げ込み、義和団が包囲。今でもその銃弾の跡が残っているとか。

 

結局義和団は八カ国連合軍に撃退され、逆に連合軍が略奪の限りを尽くす。当時北堂の神父ファビエが大官僚立山の屋敷から大金を奪ったことは有名である。尚浅田次郎の『蒼穹の昴』の中に北堂とファビエ神父が登場する。小説ではファビエはベネチアンガラス細工を造り、孤児院で孤児を育てている。真実はよくわからないが、或いは単なる略奪ではなかったのかもしれない。

 

門を潜るとそこには『勅建』の文字が。これは西太后が公金を与え、建設されて事を指す。当時フランスは革命があり、中国の教会に援助することなど無くなっていた。中国で援助するものも無かったであろう。何故西太后が??

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現在の建物は1985年に改修されたもの。ゴシック建築の立派な建物。日曜日の昼時、礼拝堂に人影は無く、中に入る。静けさに包まれていた。疲れた体を休めた。目を瞑ると昔が見えるような気がした。

 6.礼親王府

ちょっと南に下ると礼親王府がある。門は硬く閉ざされ、中を窺うことは出来ない。礼親王は清朝の開祖ヌルハチの第二子代善に始まる名家。ヌルハチの長男が早くに亡くなったこともあり、実質代善が長男としてヌルハチを補佐。この代善、礼親王府の建設時には、ヌルハチの命令で各省の総督が皆資金を出したほど、一時は時期皇帝の最有力であったが、ヌルハチ最愛の女性アバガ(ゴルドンの母)と過ちを犯し、その地位を失ったという。

 

当時の満族の習慣では、皇帝が亡くなった場合、その妻は時期皇帝の妻になるので、二人は早まってしまったということか?因みにアバガは終生ヌルハチの愛を受け、ヌルハチの死に際しては、夫に従い殉死した。その後嘉慶年間に屋敷は焼失。嘉慶皇帝より資金を賜り、再建。1943年には一時満鉄の所有になったこともある。現在は国家機関と民家となっており、内部を窺うことは出来ない。

 7.万松老人塔

西四南大街に戻る。北京基督教会がある。ハングルが書かれており、チマチョゴリを着た女性が中に入って行く。ここは1922年洗礼を受けたばかりの青年、後の老舎が住んだと言う教会ではなかろうか?老舎は半年あまりこの教会の日曜学校の主任を勤め、日々磚塔胡同を散歩していた。その様子は著作『離婚』に描かれている。

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その北側に万松老人塔があるはずであった。ところが見ていくと建設現場があるのみ。よく見るとその道沿いに門だけがカバーを掛けられて頭を覗かせている。その頭にははっきりと『万松老人塔』と書かれている。

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これは塔ではないから、入り口の門と言うことか。とすれば後ろの建設現場の中に塔は埋もれてしまったのか。レンガ造りの九層の塔とあるのだが。建設者はこの門を残すことを条件に許可を得たのだろうか??

 

万松老人は金末元初の僧。仏教大師の称号を得る大物だが、北京郊外で修行を積んでいた。彼の弟子には有名な元の宰相耶律楚材もいた。僧の死後、弟子たちは郊外に塔を建てたが、明の永楽帝の遷都でこの場所が中心に近い繁華街になってしまう。これは老人にとって不幸だった。その後200年余り行方が知れなかったが、明末に僧が発見、清の乾隆帝時代の僧も、既に朽ち果てつつあったレンガが載った塔を危ぶんだ。

 

最近でもこの塔は粗末に扱われているようであったが、ついに取り壊されてしまったらしい。残念でならない。

 

《北京歴史散歩2008》(10)宣武門付近

【宣武門】2008年5月17日

朝の鍼灸を終わって外を見ると雨が降りそう。しかも肌寒い気温。うーん、偶には散歩しようと決めていたのだが。今週の四川大地震は未だに救助活動が続いている。雨が降っているようだ。私も雨の中散歩を決行することにした。

1. 楊継盛故居
地下鉄2号線、宣武門駅下車。地上に上がると斜め向かいにそごうデパートが見えた。9年前北京に赴任した際、そごうがあるというので一度来たことがある。当時の家からは相当遠かった。結果的にはそれ程の成果が無く(欲しいものがなかった)、空しく帰った記憶がある。

当時既にそごうは傾いていたはず。香港のそごうも名称だけになっていた。しかし今回仰ぎ見るとビルが2つになっており、大きくなっている。一つはそごう百貨、もう一つは庄勝広場とある。どうしてこうなったのか??

 

そのそごうの道(宣武門外大街)の反対側をふっと横に入る。達智橋胡同である。近くに近代的なビルがあるのとは対照的に昔ながらの横丁。小さな店が軒を並べていた。この中に楊継盛故居があるはずだが・・??

すっと通り過ぎてしまった古びた建物、前では野菜を売っているなんでもない建物、そこにプレートが嵌っていた。『楊椒山祠』、楊継盛は椒山と号していた。明代の英雄、楊継盛は科挙の進士に合格し、将来は宰相の器であったが、皇帝のお気に入り、厳嵩の恨みを買い獄に繋がれる。硬骨の士は三年間の苛烈な拷問の果て、祠近くの菜市口で処刑された。

それから230年、清代の1786年、御史によってこの祠は建てられた。現在は中にも人がいて、商売に使われている。この祠が歴史に登場するのが1895年、康有為ら挙人1000名以上が集まって光緒帝に奏上した『公車上書』事件の舞台となる。また裏には1848年建造と言われている諫草亭がある。但し今は入ることが出来ない。諫草亭はその名の通り、楊継盛が厳嵩に関する諫言、『十罪五賊(十の罪と五つの裏切り)』を書いた場所。

芥川龍之介は1921年にここを訪れている。『北京日記抄』の中で「故宅といえば風流だが、今は郵便局の横丁にある上、入り口に小便壺があった。椒山の碑をランプの台に使っているのも滑稽。後生まことに恐るべし。」と書いている。当時既に全く保護されず放置された様子が分かる。僅か30年前に清朝崩壊の先駆けとなったこの場所を何でこんな風にしたのだろう。

2.聶耳故居

東西に走る達智橋胡同に対して南北にクロスするのが校場頭条胡同。この通りは既に新しく改装されており、ちょっと雰囲気が違う。その無機質に近い胡同の中に旧雲南会館がある。特に表示も無く、通り過ぎてしまう。

中を覗くと昔ながらのレンガ造りの家々がある。この中にあの中華人民共和国国歌を作曲した聶耳が住んでいたのかと思うと感慨深いものがある。最も本人は自分が作った曲がよもや共産国家の国歌になるとは思っていなかっただろう(国歌『義勇軍行進曲』は映画『風雲児女』の主題歌であり、抗日の歌でもある)。

何しろ聶耳は1935年24歳の若さで鵠沼海岸で水死しているのである。私は子供の頃鵠沼海岸で育った。確かにこの中国の作曲家の名前を耳にしたことがある。慰霊碑もあるし、毎年7月には慰霊祭が今も開かれている。1912年雲南省昆明で生まれた彼が何故日本で死んだのか??それは友人の援助でソ連に音楽留学する途中に立ち寄ったと言う偶然の産物であったらしい。人の一生とは分からないものである。

雲南生まれの彼が北京の音楽学院を目指して上京した際、郷土の会館に身を寄せたのは当然であろう。但し環境は良くなかったようで、薄暗いかび臭い部屋で練習に励んでいたと言う。(彼は4歳で父を失い困窮の中、音楽を続けていた)現在の旧雲南会館は単なる胡同の1つ。数十世帯が普通に暮らしている。更に歩いて行くと大きな古木が胡同からはみ出すように歴史を刻んでいた。

3.共産党地下印刷所跡

校場頭条胡同の南の突き当りを右に折れると校場口胡同。その中心辺りに洋館風の2階建ての建物があった。現在は鍵屋のようだが、恐らく昔は由緒正しい、何かであったろう。

この付近から定居胡同辺りは極めて昔の風情を残していて心地よい。特に木々が生い茂り、少し曲がりくねっている所に誘惑される。地図を見ずに歩いてしまい道に迷うが楽しい。しかも次に向かう目的地は共産党地下印刷所跡。勿論現存しているはずは無い。80年前を髣髴とさせる路地だけが歴史を語る。

1921年創立の中国共産党は当初非合法地下活動が中心。機関紙を発行し、その主張を人づてに伝えていく。1925年に僅か半年ではあるが、機関紙『響導』を印刷した場所が広安西里という如何にも目立たない小さな胡同の中にあったという。

1925年と言えば第一次国共合作が成立していたものの、3月には孫文が亡くなるなど、極めて不安定な時期。この印刷所が果たした歴史的な役割は意外と大きかったのかもしれないが、今では誰も知る人はいない。

本日訪れてみるとその目印と言われる、槐樹の大木は胡同の中ほどに見えたが、そこには既に建物は無く、取り壊されて建替え中であった。周囲は昔ながらの人々が住み、雨が降りそうな薄暗い中、そこ彼処に立って、まるで共産党を守るように、よそ者を監視していた。

 

 

4.康有為故居
雨が降ってきた。傘を差して菜市口大街を東へ渡る。昔はその名の通り菜を売る市場があったのだろうが、今では通り沿いには近代的なビルが建っている。東南の角には大型開発が行われており、近い内に巨大ビルが出現する。

目指す米市胡同に入り込もうと道を探すが大通り沿いからは一切入れなくなっている。全てが開発対象なのである。僅かに残る昔風の建物には『取り壊し』の文字がペンキで空しく書かれている。

やむ終えず交差点に戻り驢馬市大街を東に歩き、米市胡同の入り口を探す。この胡同は幅が比較的広い。背の高い煙突が見える。しかし両側の店は殆どが閉まっている。康有為故居(旧南海会館)は一段下がった右側にさり気無くあった。しかしこの周りの建物も全て取り壊しマークが付いている。ここだけは保存するつもりかマークは無いが??

南海会館は1823年在京の南海官僚が資金を出し合い、朝廷高官の旧宅を購入。190室、13の庭を持つ地方会館の中で最大の規模を誇る。

広東省南海出身の康有為が初めて北京にやって来たのは1882年、科挙の試験を受けるためであった。その時から1888年、1895年と上京し、郷土の会館であるここ南海会館に住んだ。『康南海先生』と称される所以である。

康有為は若くして科挙の地方試験に失敗、香港で植民地の実態を体験、自国の遅れに気が付いた。北京でも清国の弱体化を知り、変法運動へと進む。1895年には先程の楊継盛故居で光緒帝に奏上した『公車(挙人)上書』事件を起こし、注目を浴びる。時は日清戦争の後、下関条約で屈辱的な講和を迫られた自国に対して、講和を拒否する内容。

1898年の変法運動は皇帝の権力を高める立憲君主制を主張したが、西大后によるクーデターより僅か100日で潰え、康有為は日本へ亡命する。その後はアメリカ、カナダ、インドを経て、辛亥革命で帰国するも、清朝復古運動に参加した程度、最後は青島で死去。

菜市口大街を挟んで反対側には譚嗣同故居がある。譚嗣同も変法運動に同調し、逮捕され、処刑された人物。尚南海会館も取り囲まれ、康有為の弟康広仁も逮捕され、譚と同じ道を辿っている。康有為、譚嗣同の活躍は浅田次郎『蒼穹の昴』に詳しい。

譚嗣同は康有為の弟子、極めて繊細な人物として描かれている。湖南省瀏陽の出身でこの故居は瀏陽会館であった。幼い頃に家族を亡くし身寄りがなく、一人生き残った彼は『復生』と称される。

変法失敗後、逃げることも出来た譚嗣同は自ら捕まり、『改革の礎になる』として処刑される。清廉潔白、高潔な人物である。

 

5.法源寺

譚嗣同故居より西に向かう。この辺りの開発は激しくビルの建設現場を通り抜ける。そして西磚胡同という昔風の胡同を南へ。しかしこの胡同、外壁は綺麗になっており、しかも道の真ん中を工事中。胡同の保存が進んでいるのはわかるが、道の真ん中に掘削車が放置されている光景は何とも醜い。

そして法源寺へ。唐代に創建されたこの寺の正門は決して広くは無い。脇の門を潜り中に入ると荘厳な雰囲気が漂う。小雨にも拘わらずお参りに来る人々がいる。線香がたちこめる。

左右に鼓楼、鐘楼が配される典型的な寺院。獅子像が並ぶ天王殿、中には綺麗な3つの観音があり、その奥の大雄宝殿には布袋様が安置されている。ここには先日の四川大震災の冥福を祈る大法会の横断幕が掲げられている。私もこのお寺に導かれて来た者として、深く手を合わせる。

法源寺は唐の太宗が高麗遠征した際の戦死者を弔うために創建されたといわれ、その時の名前は憫忠寺(境内には憫忠閣という建物もある)。唐代、安史の乱を起こして都を占拠した安禄山と史思明は節度使として北京に駐在。この寺に塔を建てたと言う。

また北宋の徽宗は金との戦いで捕虜となり、この寺に幽閉された。金代には女真族の科挙の試験も行われたようだ。1734年の大改修後に現在の名前となる。

更に奥には観音堂、そして一番奥に法堂がある。法堂には涅槃仏が横たわり、周りには古い仏像が多く安置されている。大銀杏の木が生い茂り、鬱蒼とした印象。何だか鎌倉の寺を思い出す。ここは禅宗なのである。

実はこの寺を訪れた3日後、一つの仏縁がありました。以下私のメルマガです。

縁は確実に繋がっている、そう確信する出来事がありました。昨年末あるホテルからカレンダーが届きましたが、そのホテルは北京には無く不思議に思っていると、このカレンダーをくれたのは、事務所の斜め向かいの会社にいたLさん。彼はこの会社を辞め、新しく北京に出来るそのホテルに転職。しかしトイレで偶に会い、笑みを交わすだけだった彼がなぜ??セールス??そこに本人から電話が。『実は私7年前は○○ホテルに勤めておりまして・・・』、あー、思い出した!!そうだ、彼、Lさんは7年前私が北京で開いた大学の同窓会のクリスマスパーティーをホテル側で仕切った人。道理で見たことがある。

彼の方も『トイレで会った時は思い出せなかったが、ホテル業界に復帰したら思い出した。』と。彼と出会った7年前、なぜ高級ホテルでパーティーを開いたのか??それは21年前に上海に留学した際、同時期に留学していた女性がセールスをしていたから。えー、あのOさんはどうしたんだ??彼女は当時パーティーのアレンジはしてくれましたが、その後産休となり、後を託されたのがLさん。この7年Oさんとも連絡していませんでした。

Lさんから早速アドレスを聞きバンコックのいると言うOさんにメールすると『1月にバンコックに来るなら会いましょう。但しその日北京に引っ越しますが。』と。驚いたことにOさんは何と私がバンコックにいる日に北京へ引越しするところ。何という偶然、しかもそんな忙しい時にも『午前中会いましょう、飛行機は午後ですから。』と言い、チャイナタウンを案内してもらいました(http://hkchazhuang.ciao.jp/chatotabi/thai/bangkok01.htm)。そして今では毎回北京のお茶会に7年前出産した息子と来てくれています。

そして先週末、地震災害への祈りを捧げるために、唐代からある由緒正しい法源寺に初めてお参りに行きました。その3日後、約1年ぶりにLさんと再会。法源寺の話をすると、何と何と彼は15歳からこのお寺で修行していたのです。しかも取り出したお寺の手帳を開くとそこにははっきりと『仏縁』と書かれていました。私がミャンマーに惹かれるわけが少しずつ解明されてきています。

 

法源寺を出ると横に中国仏教学院がある。ここでは20名の学生が仏教を学んでいる。どうりで法源寺の境内で若いお坊さんを見かけたわけだ。更に学院の横には何故か雑技団のオフィスもある。修行と関係あるのだろうか??

 

 

6.礼拝寺

輸入胡同という不思議な名前の道を通り(牛肉解体業者が軒を連ねている)、牛街に出る。この辺りにはイスラム式の食材を扱う『清真』のスーパーやレストランが並ぶ。大通りに『回民小学』と言う建物がある。牛街一体はイスラム色が強い。因みに牛街の名の由来はイスラム教徒が豚を食さないことから来たものではなく、この一帯に昔柳の茂る湖(柳湖)があったことから、柳(Liu)が訛って牛(Niu)となったと言う説があるようだ。

礼拝寺は996年にアラブの学者ナソルディンによって創建された北京最古のイスラム寺院。明の時代に礼拝寺と名付けられた。寺院の殆どは1442年に建造されたもの。寺院の裏には元代にこの地で亡くなった二人の伝道師、モハメド師とアリ師の墓がある。

元代には『色目人』と呼ばれたアラブ、ペルシャ商人が多く滞在していた。彼らと漢族、蒙古族が混血して回族が生まれたそうだ。回族は現在全国に700万人以上の人口を持つ。清真料理は豚肉の入らないあっさりした料理。22年前の上海留学中、外国人未開放地区などを通ると、食事は必ず清真であったことを思い出す。清潔であっさりがよかったのだろう。

入り口は小さい。中に入るとおじさんが『チケット?10元』と英語で声を掛けてきた。そして『日本人か、よーし』と何故か日本語が。カメラOKなど親切に教えてくれる。外国人慣れしている。恐らく一般の中国人は来ないのだろう。

本殿に向かう小道が素晴らしく綺麗。特に小雨が降る様子がよい。鮮やかな花壇。そこを抜けると伽藍があり、1273年創建の喚礼楼がそびえる。2階に上り四方に向かってコーランを叫ぶ場所だとか。

その前には礼拝殿がある。1000人を収容できると言われているが、残念ながら信者以外は入れないとのこと。一日5回のお祈りのときは大勢の人が集まるのだろうか??今はひっそりしている。因みにイスラムは男女の区別に厳しい。寺の後方には女礼拝堂が別途ある。

寺の入り口には物乞いの女性が二人。さも当然のように手を出してくる。イスラムは女性に厳しい社会なのであろうか??

 

 

 

《北京歴史散歩2008》(9)龍譚湖公園付近

【龍譚湖公園付近】2008年3月16日

いよいよ春到来。今日も朝から天気がよい。オリンピックのマラソンで世界記録保持者が大気汚染を理由に北京マラソン出場辞退、この衝撃か今日の北京は空も青い。散歩日和だ。

 

しかし北京歴史散歩の本も有名どころは大体歩いてしまった。さて、どうする??悩んでも仕方がない。歩いてもその後文章にする時間も無く、調べる時間もない状態。取り敢えず買い物ついでに1ヶ所行けばいいや。買い物はイトーヨーカ堂へ。一番近い東三環路の徑松橋辺りの地図を見ると西の方に龍譚湖公園の文字が。ここだ、さあ、行こう。

 

  1. 体育館路

タクシーで行けば直ぐだが、そこは散歩。基本は地下鉄。崇文門まで2号線、そこから5号線に乗り換え、天壇公園東門駅下車。西を見えれば天壇公園が見えたが、無視して??東へ。この道の名は体育館路。体育館でもあるのだろうか??歩いて行くとやたらとスポーツ用品店がある。人気のバドミントや卓球用具を売る店が多く見える。スポーツウエアーも多彩。多くの人が買いに来ている。本当に中国も余裕が出てきている。

 

そして体育館があった。入れてもらえるのかどうは不明であるが、外から見ると西洋風の建物。中はどうなっているのだろうか??その東側にも洋風クラシックな建物が並んでいる。よく見るとここは国家体育総局という役所。更には中国オリンピック委員会などという名前も見える。

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そうか、ここが中国スポーツの総本山か。今年は忙しいんだろうな。しかしこの由緒正しそうな建物は一体なんだったのか??1952-1955年の間にこの路は建設された。その際に体育館と北側に国家体育運動委員会が建てられる。その後総局は後に移転されたのだろう。

 

その先を南へ下るとそこは昔の北京。胡同が立ち並ぶ。しかもしっかりしたレンガ造り。かなりの歴史を感じさせる。名前も『幸福南里』という。幸せそうな雰囲気がある。天気がよいので老人を中心に皆外で日向ぼっこ。胡散臭そうに私を眺める。そうそうに退散。

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龍譚路に出た所には沢山の腕章を巻いた警備の人が??捕まるかと思うほど。その後も多くの警備の人々を見た。これは全人代のための警備か??昨日で終わったはずだが。それともチベット暴動への対応??遠すぎるような気もするが。

 

そこから直ぐの交差点、西側には北京遊楽園という遊園地がある。ここは昔からあるが一度も行ったことはない。日本企業が関係していると思うが、果たしてどんなところなのだろうか??天気のよい日曜日、バスが何台も入っていた。

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 2.龍譚湖公園

東側に龍譚湖公園の入り口がある。なかなか立派な門である。入場料2元。多くの人々が入っていく。龍譚湖公園は戦前墓地が点在していたという。二環路の外は城外という時代、この辺りは荒涼とした荒地であったのであろう。

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1952年市政府はこの地を開墾し、人工湖を作った。龍譚湖である。今では市民の憩いの場であり、毎年旧正月にここで盛大な廟会が開かれているという。墓地の跡、ということもあるのであろうか??

 

今日は天気もよく、人出が多い。社交ダンスをする男女、子供の遊び場では歓声が聞こえる。しかしなぜここで歴史散歩??実はこの公園の中に『袁崇煥廟』がある。袁崇煥は明末の英雄。満族ヌルハチの北京侵攻を防いでいる。この戦闘で負傷したヌルハチは後日亡くなっている。

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硬骨漢であっただろう。宦官に陥れられ、職を奪われたが、その後復職。ホンタイジ(ヌルハチの子)の北京侵攻の際も守り抜いたが、計略に遭い、猜疑心の強い明朝最後の皇帝崇禎帝により処刑された人物。その後この皇帝も李自成の乱で北京を占拠され、宦官一人を連れて故宮の裏山景山で首を吊った。その際さぞや袁崇煥を処刑したことを悔いたのではあるまいか??

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今日訪ねた公園内の廟はひっそりと、そしてこじんまりと建てられていた。殆どの人は気が付かず通り過ぎていく。廟内には袁崇煥の遺筆が飾られている。また康有為の書も数点飾られていた。康有為は恐らくはこの袁崇煥を手本の一人として、皇帝を立てながら国を守った人物を尊敬していたに違いない。

 

因みに民国初袁世凱が大統領になろうとした時、彼の出自を華麗にするため、同じ姓の袁崇煥の末裔であると名乗ろうとしたらしい。一部学者に袁崇煥を称えさせたことにより、この名前は復活した。奇妙な巡り合わせである。しかし最後は袁世凱も野望を果たせず死ぬ。

 

これだけ大きな仕事していた袁崇煥に対して、この廟は如何にも小さい。現代の中国人は彼についてどのような印象を持っているのだろうか??評価が大きいとはとても思えない。

《北京歴史散歩2008》(8)積水潭付近

【積水潭付近】2008年2月16日

旧正月が明けた。まだまだ寒いが、日中零度を超えるようになった。この頃天気が極めてよい。やはり青空は気持ちが良い。オリンピックイヤーだからだろうか??健康診断を受けた感じでは、体調管理が求められることになりそう。散歩の再開が不可欠となる。また最近中薗英助の『北京飯店旧館にて』を読み、老舎への関心も高まる。老舎の生家近く地下鉄積水潭駅へ向かう。

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1. 太平湖

老舎は1966年8月に文化大革命の犠牲となり、紅衛兵から暴力を受け、その後太平湖西岸に死体が上がった。未だに他殺か自殺か、真相は不明ながら文革の犠牲になったことは間違いない。今回読んだ中薗英助の『北京飯店旧館にて』では、老舎のような老北京人は自分から城外へ出て自殺することは考えられないとして、太平湖で死んだのであれば他殺であろうとしている。(一方『北京歴史散歩』ではこの死には抗議の意味があり、覚悟の自殺ではなかったかとしている)

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太平湖とは一体どこにあるのか??この湖は以前積水潭にあった城壁に沿った西にあったようだ。しかし老舎の死を隠すかのように1972年、地下鉄工事の影響で埋められてしまったらしい。いやよく調べてみると北京の地下鉄は何と1969年10月に2号線が開通している。資金の一部は例の日本のODAである。工事期間4年、文革中によくも工事が出来たものだと思う。それにしても40年も前に地下鉄があったことは意外である。そして何でこの2環路を回る線が2号線なのか??分からない。

今回積水潭駅で下車し、地上へ出ると、西側の護岸河は凍結していた。かなり長い河を端まで行ったが、その先は団地になっており、行き止まり。しかし近所の地図を見ると何と『太平湖』という文字が見える。そこまで足を伸ばすと『北京市地鉄運営公司』の敷地が見えてきた。中に入るとかなり古い建物もあり、ここが1972年に埋め立てられた所ではないか、と思われる。奥には線路の引込み線も見え、この辺りが湖であったのでは??何一つ往時を偲ぶ物はないが、何となくそんな気がした。

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そうか、地下鉄工事で埋め立てられたのではなく、地下鉄の会社の用地として使われたのだ。それにしても当時の北京、土地は幾らでもあったであろうに??不思議な気分はすっきりしない。長閑な休日の午前中、昔からここに住んでいると思われる人々が楽しそうに談笑していたりする。文革は今や昔の出来ことなのである。

2.西直門内大街

徳勝門西大街を渡り、高層ビルの建設現場の横を通り抜ける。道が工事によって複雑に蛇行している。その裏は昔ながらの団地、そこを抜けるといきなり西直門内大街に出た。そして目の前に教会が。

天主教西堂、北京には東西南北の名の付いた教会がある。その中では最も名前を聞かないのが西堂。4つの中で最後に出来た教会である。1723年創建。その後1811年、1900年(8カ国連合軍)に破壊され、現在の建物は1912年建造。

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土曜日のせいか、教会の門には鍵が掛けられていた。そして少し改修している様子が見える。この建物、一般の教会のようにシャープな印象は無く、どちらかと言うと公会堂のような横長。ちょっと不思議である。(てっぺんの尖塔系の鐘楼は既に取り壊されている)横の小門を潜るが何となく入ってはいけない雰囲気。教会は一般的に開放されているはずだから、きっと何かあるのであろう。

教会から東へ。明最後の皇帝、崇禎帝時代に宦官のトップ、太監に就任し、権力を欲しいままにした曹化淳が建てた曹老公観の跡があるはずであった。曹老公観とは巨万の富を築いた曹化淳自らを祭る廟である(正式名称は崇元観)。その権力が窺い知れた。曹化淳は明が滅ぶと李自成に(李自成に城門を開いたのは曹化淳)、李が倒れそうになると清朝に付くという稀代の身のこなしを見せた人物。

1769年に修復された後は衰退したが、ここの廟会は大規模なものであったらしい。民国時代には見る影も無く、1931年には国民党の陸軍大学となり、その後張学良の東北大学が瀋陽より移転してきて、その校舎として使われたという。因みに東北大学は当時の先進的な大学で男女共学、欧州留学制度など、近代化と愛国を理念とした。

 

歩いて行って見たが、通りに面した場所には何も無い。奥に入ってみるとそこには児童図書館と映画館の入ったビルがあったが、往時を偲ぶ物は何一つ無かった。やはり悪徳宦官のイメージが強いのであろうか??

3.老舎生家

新街口を南へ行く。一筋一筋丹念に道を確認していく。ない??地図にも載っていないこの胡同を探す。途中バックパッカーのためのゲストハウスなどもあり、この辺りにまで外国人が出入りしていることに驚く。

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小楊家胡同、あれっと言うほど小さい入り口にびっくり。表示が無ければ通り過ぎていただろう。鍵型に曲がるとそこにじいさんとばあさんが日向ぼっこしていた。老舎の生家を探したが、またまた通り過ぎる。住所表示がないのである。

辛うじてこの入り口に違いないと思えるところに当たる。写真を撮っていると後ろからじいさんがじっと覗く。ここに間違いない。箒がさかさまに立て掛けられている。何となく長閑な光景である。

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老舎、満州族。北京市井の作家。1899年生まれ。翌年義和団事件が起こり、父親は八カ国連合軍の攻撃から正陽門を守って戦死。母親は苦労しながら老舎を育てた。

学生時代に読んだ『茶館』は今のお茶好きの原点であろうか??日本軍政下の北京を描いた『四世同堂』、もう一度読み返そう。そんな気にさせる何気ない胡同であった。小楊家胡同は旧名を小羊圏胡同といい、昔は羊を飼っていたらしい(また入り口が小さく中が大きいことから羊の腸に似ているとの意味?)。生家の壁を越えて見える大木がその様子を見ていたのだろう。

 

4.梅蘭芳

新街口から護国寺街へ。寺はないらしい。しかし門前に小さなレストラン、商店が並ぶ。徳勝門内大街との交差点に梅蘭芳記念館と書かれた(鄧小平揮毫)立派な門を発見。門を潜ると梅蘭芳の胸像がある。

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梅蘭芳は祖父、父共に京劇役者。幼くして両親を無くしたが、胡琴の名手であった叔父に育てられ、11歳で初舞台、20台で既に名声を博し、1922年の溥儀の結婚式では清朝最後の余光を飾った。

日本も訪問している。1918年に帝国劇場で公演。歌舞伎役者との交流も展示されている。1930年代は拠点を上海に移し、愛国主義的な活動を展開。日本侵略主義に断固反対の態度をとる。チャップリンやバーナーショウなど多くの著名外国人との交流もあり、国際的な評価を得ていた。

解放後周恩来の要請もあり北京に戻り、故居に居住。自ら作品を作るなど精力的に活動した。晩年10年を過ごした四合院の旧居をそのまま展示室にしている。正面奥にはベット、机など生前使用していた家具がそのまま展示されていた。

尚徳勝門外大街の道を挟んで反対側には慶王府があった。ここは清末の愛親覚羅亦?の邸宅。現在は一般住居なのか非公開。

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1900年の義和団事件では李鴻章と共に連合軍と辛丑条約を締結。その後外務大臣、軍機大臣を経て、総理大臣も勤めた。但し彼は才能も品性も無く、賄賂を受け取っていた。東交民巷のHSBCに多額の資産を預金していたと言う。

 

 

 

《北京歴史散歩2007》(7)后海付近

【后海付近】2007年9月9日

実に久しぶりに歴史散歩に出た。元々の予定は今日から出張だったが、一日伸びた為時間が取れた。こんな日は良い事がある、と思い地下鉄で鼓楼へ。

 

(1)   竹園賓館

駅から旧鼓楼大街を南へ。右手に小石橋胡同がある。胡同の入り口に新しい牌楼があり、『竹園』と書かれている。何となく不思議。歩いて行くと通り過ぎそうな家並みの中に看板があり、竹園賓館が分かる。

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ここは四合院ホテルとして紹介されているが、それにしては大きい。かなり立派な人の屋敷だったはず。入り口正面の大木がそれを物語っている。古くは西太后お気に入りの大監(宦官の親玉)李英蓮、その後清末の大臣盛宣懐の屋敷だったと言われている。文革中はあの悪の大立者中央宣伝部長の康生が住んだと言われている。

 

服務台のある建物も少し物々しい。お姐さんは流暢な英語を話していた。日本語の解説もあるようだ。どう見ても外国人が泊まるところ。庭と庭の繋ぎは朱塗りの回廊。横には建物があり、レストランになっている。西洋人がゆっくりと粥をすすっていたりする。私も食べたくなったが、何となく場に合わない感じがして止めた??

 

回廊の奥左手に竹林がある。小道になっていて素晴らしい散歩道である。このホテルの名前がここから付いたことが分かる。更に行くが聴松楼。建物の前に松の大木があり、松の音を聞いて寝る、という風雅な名前である。

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素晴らしい庭園ホテルだが、宿泊代は780元、880元と高い。外国人料金だろうか。警備はかなりしっかりしていた。竹の林が美しい。海棠、石榴など木々に埋もれている。一度は泊まってみるか。

 

(2)   鐘楼と鼓楼

鐘楼に到着。急な階段が何とか上がり上へ。息が切れた。上には大きな釣鐘が置かれている。この鐘が朝夕北京に鳴り響き、城門の開閉を告げていたのだ。元の時代、鐘楼は大都の中心であった。万寧寺の中心閣があった場所である。

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1420年明の永楽帝の時代に創建され、1745年清の乾隆帝の時に改修された。北京の時計として日に108回鳴っていたというが、1924年に民国政府が溥儀を紫禁城より追い出し、鐘の音も聞こえなくなったという。

 

この鐘には伝説がある。永楽帝は鐘楼完成後、大きな銅の鐘の作成を命じたが、いくらやっても上手く出来ず、期限の最後の一日に親方の様子を見に来た娘が炉に飛び込むと、鋳上がったというもの。『鋳鐘娘々廟』が近くに建てられ、娘を祭っていたが、今ではその廟も見当たらない。

 

楼の下には何故か茶芸館がある。こんな所でお茶を飲む人がいるのだろうか??不思議な感じ。その南に鼓楼がある。大量の太鼓が展示されている。何故こんなに太鼓が必要だったのだろうか??外が良く見える。周辺の胡同が破壊されていく様子がよく見える。非常に残念な光景ではあるが、都市の発展とどちらが大切なのか、永遠に分からない謎なのだろう。

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1272年元代の創建。1420年鐘楼の建造と共に改修される。その後1900年の義和団事件に際しては日本軍の略奪に遭い、大太鼓が軍刀で切り裂かれたと言う。1924年に日本軍の略奪行為を展示した際には、悲憤の青年が飛び降り自殺したとのこと。当時の日本軍の侵略は北京にも大きな爪あとを残している。

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以前景山公園の頂上から見た風景を思い出す。故宮と反対側、北側を見ると故宮から真っ直ぐ北に一本の線が伸びている。その線上の中心に鼓楼と鐘楼が位置していることがよくわかる。都市計画とはこのようなものであろう。

 

(3)   広化寺

什刹海に出る。什刹海は西海、后海、前海からなる。元代は水路が繋がっており、物資がここまで運ばれてきていたため、商業の中心地であった。明代には水路が機能しなくなり、高官の邸宅が造られるようになった。名前の由来は什は十、刹は寺を指す事から、この辺りに10の寺があったらしい。

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しかし今寺はあまり見られない。后海の湖岸を歩いて行くと風は爽やか。柳も枝垂れかかり、気持ちのよい散歩となる。見ると獅子の像が2つ。寺があった。入れるのかなと覗くと入れた。こじんまりした造り。鐘楼と鼓楼あり。信者が熱心に祈っている姿が印象的。檀家以外は奥には入れない。

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広化寺は元代の創建。浄土宗。ある僧が一生かかって托鉢を行い、その喜捨で建てられたといわれる。仏教の教えを広めたと言う意味で名前が付けられた。現在は北京市仏教教会の本部になっている。

 

1908年に張之洞(洋務派官僚として重要な役割を果たし、曽国藩李鴻章左宗棠とならんで、「四大名臣」とも称された)がここに京師図書館を設立。清朝皇家蔵書、敦煌石室写経など10万冊の蔵書が集められたが、洋書は禁書となる。

 

(4)   宋慶齢故居

醇親王府がある。非公開、現在は衛生部が使用しているらしい。その庭園部分が宋慶齢故居になっている。醇親王は清末の混乱期に摂政を勤めた人物であり、あのラストエンペラー溥儀の父親である。

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溥儀はここで生まれ、皇帝となり、皇帝を退位し、故宮から退去した後、1924年一時的にここに戻ってきた。宋慶齢は1949年に建国以降、1981年に死去するまでずっと北京に住み続けた。この邸宅に住んだのは1963年から亡くなった1981年まで。慶齢は自らの住居を建てようとする共産党幹部に対して何度も断ったという。最後は1962年に周恩来が自ら場所を選定し、引越しを促した。

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厳しい門を潜ると兎に角広い。公園のようだ。庭が整備されており、綺麗。築山あり、池あり、水は后海から引いている。流石は国歌名誉主席の家に相応しい構えである。四合院造りの3棟の建物に展示物がある。宋家については言うまでも無いが、上海の財閥。3姉妹はいずれも歴史に大きな役割を果たした。特に慶齢は国父孫文の妻として、その役割は重要。好きだった鳩を沢山飼っていた彼女、平和への思いも深かっただろうか。

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展示室には彼女の歴史が表示されている。1949年の建国では天安門で毛沢東と並び、1954年にはダライラマと撮った写真もあった。しかし文革中の展示は何も無い。どうしていたんだろうか??主楼は慶齢が住むのに合わせて、あの変法維新のメンバー梁啓超の息子で著名建築家である梁思成が設計。外見は中国伝統建築、中に入れば洋風の内装。見事な折衷である。1981年5月に亡くなった時、私は大学に入学したばかり。台湾に渡った妹美齢(ニューヨーク在住)が中国の葬儀に出席するかが大きな注目を集めていた気がする。

 

(5)   高廟と李橋

后海南沿に回る前に西海に行ってみた。橋を渡ってすぐの所に高廟と呼ばれた明代の関帝廟があるはずだった。しかしいくら探しても見つからない。既に取り壊されたらしい。印刷工場になっているとの情報もあったが、見当たらない。付近は昔ながらの胡同の雰囲気が残っているのだが。

 

高廟は1860年のアロー号事件の際、イギリス人ハリー・パークスが幽閉された場所である。パークスは英仏連合軍の交渉役として北京にやってきたが、交渉が決裂。清朝軍に捕まってしまう。後に釈放されるが、英仏軍による円明園略奪などを引き起こした。

 

パークスはモリソン号事件で知られるモリソンから中国語を学び、中国侵略の尖兵となった人物。13歳で清にやってきて苦労を重ね、最後は駐日公使、駐華公使を歴任。立志伝中の人物と言える。

 

(6)   茶家傳

南沿に戻る。大好きな紹興レストラン、孔乙己の2号店(10年前に開店)がある。なかなか雰囲気のある店であるが、遠いので殆ど来ていない。后海を眺めながら、紹興酒を飲むのも乙なものか。

 

その横にお洒落な6角形の建物が見えてくる。茶家傳、有名な茶芸館である。中に入ると広々とした空間があり、九官鳥が迎えてくれる。木製のテーブル席あり、心地よさそうなソファーあり、個室も大小あって、顧客の嗜好に合わせている。ソファーに寝転んで本を読んでいる西洋人がうらやましい。お茶は種類が多く、質もそこそこよい。お茶を頼むとお茶菓子6種類が付いてくる。休日の午後、何も考えずにここで寝転がっていたい。お茶の香りに触れながら。

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尚店内には多くの骨董品が置かれている。店員に聞くと、『オーナーの趣味が骨董で、元々この店も骨董を置くための倉庫として建てた』とか。なるほど、商売でやっている雰囲気があまりないわけだ。

 

のんびりした後、裏へ歩いて行く。柳萌街、柳が風に揺れ、緑が多い。ここも気持ちがよい道であるが、何しろ人手が多い。そしてやたらに人力車もいる。何だこれは?柳萌街は1965年以前李広橋と呼ばれていた。李広とは漢代に匈奴と戦った将軍李広とは関係ない。李広とは明代孝帝の寵臣であり、太監となった人物。孝帝は幼少の頃不遇であったようで、その際李広の世話になったらしい。ところがこの人物、金の亡者であくどいことをかなりやっていた。後宮では有名であったが、皇帝は気が付かず、また気づいてもなかなか関係が改善できなかったとか。

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1498年、今の景山公園の頂上に李広の指示で亭が設けられたが、この時偶然皇帝の愛娘が亡くなり、これを李広の非として、彼は毒をあおって死んだ。死後家を調べた所、金銀財宝が山のように出て来たという。李広橋は1488年に作られたが、庶民はこの橋を渡るのに、料金を徴収されたと言う。これも悪徳李広の評判を悪くしている。

 

(7)   恭王府

中国の有名小説紅楼夢の舞台となった大観園のモデルと言われている庭園がある(紅楼夢の作者曹雪芹の死後庭園は出来たらしいが)。元は乾隆帝の寵臣として富と権力をほしいままにした和珅の邸宅。1777年建造。乾隆帝の死後(1799年)即位した嘉慶帝は即座に和珅を汚職の罪に問い、自殺。巨万の富が蓄積されていたと言う。邸宅は没収。清の道光帝の第六子恭親王、愛親覚羅亦訴に下賜され、改造されたもの。

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恭親王は清末に西太后と組んで、政治・外交に支配力を発揮した人物。この庭園も外国施設の接待用に中西混合の造りとなっている。正面の門を見ると石造りのアーチ型、ギリシャ風の円柱、唐草の装飾と言った感じ。

 

その後孫の溥偉が相続、清朝が倒れ、1921年に西什庫教堂から借金をした際、担保として差し出される。1932年にはローマ教会が買い取り、溥偉の借財を返済、カトリック教会主導の私立学校、輔仁大学の所有となった。因みにこの輔仁大学は戦後台湾に渡り、現在は台北にある。また北京時代の学校の跡は、恭王府の直ぐ南に重厚な建物が存在している。

 

入り口には中国各地からやって来た団体さんが屯している。入場券を持って列の後ろに付く。中に入ると正面を登る。独楽峰、孔の開いたぶつぶつの石が配置されている。この山を越えると池。純中国風。さすが中国最大の王府と言われるだけあり、内部は実に広い。山水がふんだんに配置され、花園もいくつもある。

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奥に福字祠と言う半地下洞があり、中には康熙帝直筆の『福』の字を刻んだ石碑がある。1962年周恩来の指示で改修した際、発見された。康熙帝の書は極めて少ない上に福の字は縁起がよいことから好まれているらしい。現在は洞の中に入り、滝のように流れる外を見ることが出来る。

 

《北京歴史散歩2007》(6)日壇公園・東嶽廟付近

【日壇公園・東嶽廟付近】2007年12月22日

いよいよ今年も終わりに近づいている。今日は冬至。中国では餃子を食べる習慣があるそうだが、旧正月も食べて冬至も食べるのか??

天気はさほど良くないが、風も無く歩き出す。ちょっと肌寒いが、気候温暖化のせいか例年の寒さはない。ただ空が暗い。自宅内の街路樹は全て枝を切られ、寒々としている。家の直ぐ近くの日壇公園を目指した。

1. 日壇公園
家の周りは大使館街。アメリカ大使館の前には自動小銃を持った警備員が。日本大使館の前も二重の柵が巡らされ、昨今の国内情勢を反映している。ゆっくり歩くこと10分、公園南門に到着。この門の並びにはいくつかレストランがある。日壇会館は立派な建物で、中庭が素晴らしい。ここで食事を取ると気分が高揚する。但し今は冬、人は誰もいない。

その隣の中国芸院は広東料理。かなり香港に近い味で広東語も飛び交う。大使館勤務の西洋人の姿も多い。飲茶が手軽。更に行くと和平茶苑。ここは中国茶を飲むスペース、食事も可能。お茶を飲みながら、公園を眺めるのも一興。家具は骨董。地下には骨董品が多数展示されており、オーナーの趣味が分かる。

公園の門の前には自転車が多数。老人が乗ってくるのだろう。日壇公園は1530年建造。明・清両時代の皇帝が春分の日の朝、太陽神を拝むために作られた。当時の名称は『朝日壇』。太陽神を拝むことで五穀豊穣を祈願したのだろう。一般庶民には無縁の場所だったのだが(当然当時は街の外で人もまばらだったのでは)。

国共内戦で公園は荒れ果てたと聞く。1950年代に改修し現在の名称になり、庶民の公園となる。70年には周恩来首相の指示によりここに日中友好の大山桜??が植えられた。どこにあるのだろうか。

中に入る(無料)と目の前に旗を揚げる台がある。真っ直ぐ進むと皇帝が参拝した様子を描いた鮮やかな壁画がある。左に曲がって進めば、池が凍っている。その上を人々が散策??している。冬の北京である。池の周りには東屋が配置され、風景を眺めながらゆっくり出来る。

公園中央に祈りを捧げる場所がある。四角く区切られた真ん中に拝台がある。しかし特に何もない。祭壇と思しき四方の台が10段ほどの階段に上げられて中央にあるだけ。ここでどのような儀式が行われたのか??思いをはせるものは何もない。やはり破壊は恐ろしい。

 

隅っこの方で数人のおばさん(中にはおじさんも)が何かを話し合っている。こんな所で会議でもあるまいし、と思ってみていると、一人が何か紙を取り出す。また一人は写真のようなものを取り出した。一体なんだ??

どうやらこれが噂の親による息子、娘の結婚相手探しらしい。結構皆真剣である。昔は皇帝の祭式で使われた神聖な場所?で相手を探す。ご利益があるのかも知れない。それにしても寒いのにご苦労さんなことだ。

東側には神庫が残っており、祭器等が収納されているのかもしれないが、今はそれを知るすべもない。北門の近くには小王府という私のお気に入りのレストランの2号店が綺麗な概観を見せている。

 

 

2.東嶽廟

公園東北の角から北京八景の1つ『金台夕照』を探すが全く分からない。著者によれば八景のうちその場所が全く分からないのは『金台夕照』だけらしい。ところが08年に入って、東三環路に新しく開通する地下鉄10号線の駅の1つに何と『金台夕照駅』が出来る。どういうことだろうか??

北に向かい朝陽門外大街に出る。小雨がぱらつく。道の南側に『永延帝祚』と書かれた楼牌が見えた。これは新しいものであろう。その南側は既に開発が進んでいるようで、広い道になっている。

その楼牌の正面に東嶽廟の正門がある。東嶽廟は1319年道士張留孫の創建と伝えられる。華北地区最大の道教廟。清の康熙帝時代に火災にあって再建。歴代皇帝が東陵に墓参に行く際、ここで昼食を取ったらしい。

中に入ると正面大斎殿には五嶽大帝が祭られている。周囲の伽藍には76の塑像が新たに作られ、収められている。とっても一つ一つ見ることは出来ないが、自分の気に入ったところで皆立ち止まり、拝んでいる。お金に関係ある神さまに人気があるらしい。一番霊験あらたかなのは南宋の岳飛を祭ったものであるらしい。

 

寿槐という樹齢800年以上の古木もある。冬枯れの木々であるが、それはそれで趣がある。乾隆帝、康熙帝などの碑もあり、なかなか面白い。また日本で言うところの絵馬がある。赤い札であるが、沢山括り付けられている。ここには学問の神様文昌帝も祭られているようで、合格祈願が中心。清代は科挙の試験場が近いこともあり、試験の時には賑わったとか。

毎月1日と15日、3月の15日から半月はご開帳があって賑わったと言う。現在もあるのであろうか??

3.日本人墓地

東嶽廟を東へ行く。東大橋路の先で道が二つに分かれている。朝陽北路を行く。核桃園という所を入る。ここに戦前日本人墓地があったらしい。現在はかなり古いアパートが立ち並び、墓地の面影など全く感じられない。

 

著者によれば、ここに中江兆民の子、中江丑吉の墓もあった。彼は30年余り北京に住み、中国古代思想史の研究に没頭稀有な人。五四運動時に焼き討ちされた旧知の曹汝霖を助けに来て、たまたま当時の駐日公使、章宗祥を助けるなど、その行動は極めてユニークであった。それにしても戦前一体どれほどの日本人が北京には住んでいたのだろう??

今では考えられないほど、日本と中国は緊密であり、人的往来も激しかった。満州浪人のような一旗挙げるための人も大勢いただろうし、駐在員も居ただろう。そしてこの地で亡くなった人も多かったはず。我々はもっと彼らのことを知る必要がある気がする。

 

アパートは一部取り壊されたのか、道に面した一角が公園になっていた。そこになにやらモニュメントがあったが、ハングル語で書かれていてよくわからない。もしかするとこれが墓と関係あるかもしれないが、これ以上墓を暴かないで、と言われているような気がして、早々に立ち去った。

 

 

《北京歴史散歩2007》(5)東交民巷と南池子

【東交民巷と南池子】2007年12月9日

昨日に引き続いて風がない。最高気温が5度だと言うが、もう少し暖かい感じ。2日続けて散歩に出ることに。今回は軽い散歩にしようと思ったが、以前より気になっていた東交民巷に行って見たくなり、実行した。

1. 東交民巷
(1)新僑飯店 

地下鉄で崇文門へ行く。地上に上がると立派なホテルがある。見ると『ノボテル新僑飯店』とある。思い出すことがある。私が始めて北京に来た1986年10月、上海に帰る直前に新僑飯店に立ち寄った。目的はラーメンを食べることである。

当時新僑飯店には日本人駐在員が多く住んでいた。今では考えられないことだが、上海には日本料理屋がなかったので、態々北京まで汽車で17時間をかけて食べに来た、その締め括りが北京駅近くの新僑飯店のラーメン。味は良く覚えていないので美味しくはなかったかもしれないが、物はあるかないか、が大事であり、あることに満足する物である。

そこで思いがけず大学の同級生A君に遭遇したことも忘れ難い。彼も私も共に中国語を捨てて別の道を歩んだはずであった。その彼が北京にいた。人生とは何と皮肉なことか??自分で嫌がった人ほど、そちらに引き寄せられる、とも言われている。そのA君とは先日場所も同じ北京で21年ぶりに再会を果たした。北京は約束の地??である。

そしてもう一つ思い出すのが、ドイツベーカリー。A君が『ここのパンは食えるよ』と教えてくれたので行って見ると、何とクリームパンやジャムパンが並んでいる。上海では考えられなかった。上海で食べられるパンを見付けたときにはケース毎買うのが鉄則。それに習い、クリームパンとジャムパンをケース毎買い、汽車の中で食べ、上海の日本人へのお土産にした。

今日ホテルの横にはパン屋があった。人で賑わっている。思わず中へ入る。勿論20年前とは比べられない綺麗さがあった。2つほど買って食べて見た。今の北京では標準的な味。これが20年間の味かどうか分からないが、とても懐かしい気分になり、道を歩きながら立ち食いした。

(2)東交民巷

ホテルの裏手に同仁医院がある。そこからが東交民巷である。元代には『江米巷』と呼ばれた米の集散地である。永楽帝時代に、外国から朝貢に訪れる人々をもてなす場所となり、様々な民族衣装に人々が行き交う場所と言う意味で東交民巷と呼ばれるようになる。

明清代には五部六府の官庁街になり、また王府も多く存在したが、義和団事件後の1901年から各国大使館専用地として実質租界への道を歩む。当時は清朝崩壊等もあり、周囲は騒然としており、武器を持った兵隊が守る場所であった。

今歩いてみても特に何ということはない斜めの道であるが、所々に洋館が残っている。本当に短い道。あっと言う間に大きな通りに出た。

(3)天主堂と外国大使館街 
その角に突然教会が見えた。かなりがっしりした天主堂。『東交民巷天主堂』とあるが、別名を『聖米厄弥天主堂』とある。聖ミゲル教会??中はシンプル。1901年に出来たとあるようだ。辛中条約の成立後に建てられた大使館員用の教会だったのだろうか??2棟の塔が突き出したゴシック式建築。こちらも中国語、英語などでミサが行われる。

 

教会の向かいに洋館が見える。紫山賓館との表示があったので中へ入ろうとすると警備員に止められる。ここは特定の人専用のホテルらしい。確かに上海辺りにある洋館ホテルの雰囲気がある。仕方なく外から写真だけ撮る。

道の横から見ると中はかなり広い。いくつもの建物が見える。崇文門西大街まで出るとその理由が分かる。ベルギー大使館跡との表示がある入り口に武装警察が立っている。そうか、ここは大使館だったのか??但し現在は改修中、いや建て直し中。

1900年の義和団事件でこの辺り一体は焼け野原になった。義和団は山東省より『殺せ!殺せ!』と叫びながら入城してきたとあるから、恐ろしい。英国大使館に皆逃げ込んだらしい。何とか持ち応えている間に8カ国連合軍が救援に来て、結局義和団は崩壊、西太后も西安に逃げ出した。

そこから連合軍の略奪が始まる。いつの時代も被害者は庶民である。義和団が来ようと連合軍が来ようといいことは無い。

 

 

 

2.正義路
(1)旧横浜正金銀行
正義路に入る。角にはかなり昔風のホテル華風賓館がある。建物は共産政権後のような無機質の面白みのない物であるが、横にある飾り窓に租界地風の味がある。因みにこの正義路は以前川が流れていたが、今は暗渠となっており、風景はかなり異なっている。

北に歩いて行くとかなり重厚な建物が。金融集団の宣伝が出ている。近づいてみるとビックリ。横浜正金銀行跡、そうか、ここは植民地には必ずある日本の国策銀行があった場所なのである。ちょっとロシア風の三角形で上に丸い塔がある。それを見てこの付近が本当の植民地、租界地であると実感した。

1901年以降ここ大使館街は外国人居留地、実質的な租界。1910年に日本人建築家妻木頼黄の設計により地上2階、地下1階の建造。南の端の天辺は半球形となっており、少しロシア風。そこから北へ細長い建物となっている。尚中に入ることは出来なかった。

(2)旧日本大使館 
その北側に特徴のある門が見えてきた。あれは何だ??正面に立つとそこには北京市人民政府とある。国旗もはためく。ポケットに手を入れた瞬間、前に立つ武装警察が手を前に突き出し、駄目のマーク。写真を撮ることを想定してのこと。その動きの素早さに背筋が寒くなるが、笑顔で見返すと先方も『分かったか』と言う感じで笑顔になる。やれやれ。

 

旧日本大使館の大門である。中薗英助著『北京飯店旧館にて』には『ロココ風の彫刻のある門の中央上部、かつての菊の紋章のあった場所には赤い生地に五星をあしらった中国の国章が打ち付けてあった。』とある。また『侵略の出先機関が首都の行政機関とは大変な優遇振り』とある。その通りかもしれない。

結局人民政府の壁づたいに歩いて行くが壁が高く、殆ど何も見えない。この中に旧日本大使館の建物があるはずだが。清末に当時の著名建築家、真水英夫の設計。西洋バロック様式を主体とした堂々とした造りと聞くが見られずに残念。

この大使館の中で1915年袁世凱大統領が対華21か条の要求に対して署名した。中国では売国奴と言われる所以となっている。1919年の五四運動では学生達が最初に目指した場所はここであったわけだ。

頼みの綱の人民政府来訪接待室も日曜日で扉が閉まっており、中を窺う事は適わなかった。次回再チャレンジしよう!

3.南池子
(1) 皇城壁

長安街に出る。以前より気になっている南池子に行って見よう。道を渡ると綺麗に刈り取られた植木があり、その奥には落ち葉がこれも綺麗に集められている。細いアカシアの並木が赤い壁と色をなしている。

皇城とは何か??明清代の北京は内城と外城に分けられる。内城の中心は紫禁城、この外側に工房や倉庫などの朝廷の生活を支援する部分、中南海のようなリゾート施設が構成され、これを囲む壁が皇城である。現在はその殆どが取り壊されて見る事は出来ない。

『南池子』と書かれたアーチを潜ると菖蒲河として整備された堀が流れ、柳がしな垂れる。その風景は実に鮮やか。思わず写真に手が伸びる。その横には旧家を改造した『天地一家』というレストランがある。ここはなかなか格式が高い。

100年前のこの辺りの写真を見ると木々は殆ど見えず、かなりスッキリと空が見える。アーチがやけに大きく感じられる。満州八旗の子孫という方はここで生まれ、育った。当然周りは貴族ばかりが住んでいた。今はその面影も無い。

(2)皇史?

南池子大街を北上すると直ぐに朱色の壁が目に付く。中に重厚な建築物である皇史?がある。明の永楽帝が作成した膨大な永楽大典の副本(1562年作成)が保管された場所。本編は明末に焼失、この複製が清代に残ったが、義和団事件の際に散逸。柴五郎はその際永楽大典を目にしたと記している。あまりに分厚さに、大砲車を通すために道に敷いたとの話もあるとか??

現在の建物は南北6m、東西3mの巨大な切り石を積み上げており、木材が全く使われていないことは完璧な防火、防虫を目指してのことであろう。室内には永楽大典の他、清朝皇帝の記録などが収められていると言うが勿論見ることはできない。正面に5箇所アーチ型の入り口があるが、どれも硬く閉ざされている。

周りにはギャラリーがあり、絵画展などが行われている。この場所は静けさが漂い、喧騒を忘れさせてくれるが、何となく物足りない。何となく??

 

 

 

 

《北京歴史散歩2007》(4)東単付近

【東単付近】2007年12月8日

12月に入り、天気が良い。天気予報では最低気温は零下2-3度であるが、日中は暖かい日差しがあり、風も吹かない日が多い。体調管理のためにも散歩に出る必要がある。

『北京ひまつぶし』というブログを持っているS氏。そのブログでご自分の通勤経路を紹介していた。それに何故か非常に興味を引かれ、歩いて見ることにした。

1.北極閣三条
(1)洋館 
家の前から長安街を天安門方面へ歩き、国際飯店の角を北へ。婦女連合中心の裏手は建設ラッシュとなっており、胡同は破壊されつつあった。そんな中でひっそりと残っていたのが、北極閣三条。かなり分かりに難い場所にある。

冬枯れた葉の無い木が良い風情で立っている。よく見るとその家の前には落ち葉を集めて瓦で重石をした壷がいくつも置かれていたりする。実に何ともいえない佇まいである。

その反対側には結構立派な古めかしい門があり、その木戸を潜ると、朽ち果てた洋館があったりする。もしやすると昔は劇場だったのだろうか??ガラスも割れて手入れもされていないが、そんな気がする天井の高い平屋がある。

実は帰ってブログを見ると『清の時代に縁慶禅林という寺があったそうで、 道光17年(1837年)に修築された後、 中華民国の時代には、協和医院の所有となっていました。』とある。そうか、お寺か。なるほど。

その向こうには2階建ての洋館が。2階にはちゃんと洗濯物が干されており、現役として住まわれていた。中を覗き込もうとするとおじいさんが怪訝そうにこちらを見たので、曖昧に笑みを浮かべて立ち去った。

(2)協和医院住宅 

更に行くとワンブロック全てが洋館。協和医院の職員住宅のようだ。現在も職員が住んでいるのかどうかは分からないが、中には綺麗に整えられた庭が見え、子供が遊んでいる。日差しを浴びてちょっと優雅な気分になる。

協和医院とは、1921年にアメリカロックフェラー財団により設立された北京屈指の病院であり、党幹部も多く治療を受けるという大病院である。この医院で思い出すのは、やはり北京原人の骨。元々ここに保管されていたが、日本軍の真珠湾攻撃で保管場所を移すことになり、その後忽然と消えて現在に至る20世紀のミステリーの舞台でもある。

また最近ではSARSの際、外国人患者を収容したことでも名前が出てきていた。今でも一流病院として東単北街に立派な建物が聳え立っている。今目の前にあるのは恐らくはアメリカから派遣されてきた医師やその家族、看護師などが住んでいた場所であろう。いや現在も住んでいるのであろう。

(3)四合院ホテル 

更に行くと胡同の中に突然綺麗なレストランが登場。かなり小さな四合院を活用したもので、ガラス張りで店内が丸見え。かなりお洒落な印象を受ける。『竹魚坊』という名で他の場所にも店があるらしい。結構予約で込んでいるとか。次回機会があればトライしよう。

その隣にこれまた小さな四合院が。中に入ると可愛い庭があり、女性が出てきた。『泊まるの?』と聞かれて、ここがホテルであることが分かる。部屋は全部僅か3つ。一番大きな部屋でもベットとソファーがあるだけ。それでも清潔そうであり、欧米人が喜びそうな造りであった。

客はやはりフランス人やイタリア人が多いとか。部屋にバストイレが無い部屋は、庭を通って別の部屋に行く必要がある。冬は寒いのでは??案の定今はオフシーズンでホテル代も半額とか??

 

 

2.新開路

『”新”と言っても相対的に新しいだけで、清の時代からの胡同。』とブログに書かれていたが、その通り。特に目新しい物はない、と思っていたら、洋館が一軒。なかなかお洒落な建物であったが、門は硬く閉ざされていた。

写真を撮っていると、門の脇に金ぴかのプレートがある。見ると『高級会員制クラブ』とあるではないか??どうやら誰からがここでレストランやバーを経営しているらしい。最近お金持ちが増えた北京のこと、こういう隠れ家的な場所が出現しているに違いない。

そう考えると新開路という名前が俄かに新鮮味を帯びてくる。不思議な物である。

 

3.西総部胡同
(1)李鴻章の家祠
更に北に進む。要するに私は胡同を東西、西東と横へ進み、そこが終わると北に上がり、また一つの胡同を横に進むと言う活動を繰り返している。

西総部胡同は全体的にお洒落な雰囲気があった。何故ならば壁に福の字が入った飾り窓のような物がどこにでも付いていたから。その飾りが一際目立つ建物があった。何気なく近づくと端にプレートが嵌っている。『李鴻章の家祠』と書かれている。そうか、ここは李鴻章が亡くなった後に作られた祠があった場所だったのか??

李鴻章と言えば、安徽省の出身で科挙に合格した文人であったが、太平天国の乱に際して、故郷が危機に晒されたことから義勇軍である淮軍を組織。その頃から外国人との交渉に慣れていた。日清戦争では暴漢に襲われながらも下関条約に調印。外国と対等以上に交渉できる唯一の人物として『東洋のビスマルク』とも呼ばれた。李鴻章に関しては、現在でも様々なことが言われている。英雄、売国奴、策士。これだけ色々な顔を持つ男とは一体??今は辛うじて壁だけが残る祠。彼はどんなことを考えているだろうか??

(2)宝善堂薬局跡 

その李鴻章の家祠の斜め前ぐらいに、かなりがっしりした建物がある。お茶屋の看板があり、興味を持って覗き込むと、どうやら将棋、マージャン部屋らしい。しかし横にプレートが。『宝善堂薬局跡』。

1938年に開設されたこの薬局は、どうやら一世を風靡したらしい。打ち身や風邪に効く薬を販売し、ロシアにも輸出していたとある。

2階の壁の部分に『張氏追風丸 万霊筋骨膏』と言う文字が目立つように書かれているのが、何とも微笑ましい。しかしこの店も共産党時代になり、1954年には政府機関傘下の企業に衣替えしたようだ。

民国時代の臨時総統も勤めた軍人李宗仁が1965年に北京に戻った後の住居もこの胡同にあった。立派な門構え。李は抗日戦争で大きな戦果を上げ(台児荘戦役)、戦後蒋介石とも袂を分かった大物。周恩来の招きで帰国。

翌年夫人をがんで亡くすと、意気消沈。その面倒を見たのが、復興病院の看護士、胡友松。彼女の献身的な対応は話題になったようだ。彼女の母親は30-40年代のスター、胡蝶。

4.外交部街
(1) 迎賓館

明朝時代は石大人胡同と言う名前であった。武将である石亨はモンゴル討伐に失敗して捕虜となった英宗の復活を遂げる。この胡同の4分の1の面積の家を造ったことから、この胡同を石大人胡同という。その後皇帝が接収、貨幣鋳造の宝泉局となっていたが、1905年に焼失。

外交部街という名前を見ただけでここがその後どうなったかが分かる。700mほどの道の中間辺りに迎賓館がある。説明書きによれば『1908年建造。袁世凱がここで政治を行い、孫文もここに滞在した』とある。しかし何故迎賓館??ドイツの皇太子が来訪した際、アメリカ人の設計を依頼し、当時の北京で最も豪華な建物を建てたのである。

清国滅亡後、袁世凱の臨時内閣がここにあった。1912年8月に孫文が北京にやってきた時、ここに宿泊し、袁世凱と13回も会談したと言う。1912年から1928年まで北洋政府の外交部であり、胡同の名称も変更となった。1949年に中華人民共和国建国時も外交部はここ。初代は総理兼務の周恩来、その後陳毅が外相を勤め、ここで執務した。1966年に現在の朝陽門外に移転、今は立派な門だけが残っており、後ろはマンション群。歴史を感じさせる。

(2)協和医院住居群

先程も同じものがあったが、ここは1918年にロックフェラーが協和医院に投資した際、造られた職員宿舎(完成は1921年)。医院の目の前にあることもあり、こちらの方が規模は大きい。東単北街に面して赤いレンガ造りの建物がいくつも見える。

20世紀20年代のアメリカの農村別荘型住宅とのことで、各戸に煙突が付いているのが、如何にも時代を感じさせる。また入り口から中には入れてもらえないが、丸いドームを潜ると中国から離れる感覚がある。

東単北大街の向かい側、医院の並びには中華径経会旧址とある建物が。今は北京市キリスト教務委員会が使っている。どうみてもアメリカがやってきた時に、宗教もやってきたのだろう。病院と宗教は一体のはずである。

5.東堂子胡同
(1) 京師同文館跡

もう一つ北の胡同へ入る。ここは結構落ち着いた雰囲気。東堂子胡同、ここは少し狭いが木々もあり、胡同らしい。

京師同文館跡があるという。京師同文館は1860年のアロー号事件で英仏が北京を侵略した後、外国語を学ぶ必要性が生じ、洋務派グループの恭親王が提案。1862年に先ずは英語科が開かれ、翌年にはロシア語とフランス語を追加。学生は当初満州八旗の師弟のみであった。

卒業生は皇帝の外国語教師の他、外交官、通訳等の業務についたという。語学以外も教えられ、1902年に北京大学の前身である京師大学堂に編入された。尚日本語は1899年にようやく設置されたと言う。日本の国力と中国の日本に対する見方が良く分かる。

尚京師大学堂は1898年に変法運動の産物として設立。西洋式の教育の必要性が求められていた。1905年には最終的に科挙制度が停止となり、大学堂の重要性が増し、北京大学へと流れて行く。

場所は総理衛門の隣にあったということだが、今やどこにあったのかは分からない。一体は住宅、アパートになっている。

 

(2)総理衛門
総理衛門とは、外国事務を扱う役所。この場所は外交部街の北に位置していることから、その実際の事務が行われていたらしい。

この周りは取り分け古い建物が多く、瓦屋根に落ち葉が載っていて雰囲気が良い。冬の日にくる場所であるような気がする。またこの道には洋館がまだ残されており、現在も使われている。往時を偲ばせる何ともいえない味わいがある。

 

6.王府井
東堂子胡同の北には紅星胡同があると地図にはあったが、実際には殆どが開発中でほぼこの胡同は壊滅している。この北側が金宝街という大通りであり、ホテルやオフィスビルが立ち並んでおり、その影響が大きい。

西に向かうと金魚胡同。何だか風情のある名前で屋台でも出ていそうだが、ここもペニンシュラーホテルなどが立ち並び、風情を味わいながら歩く環境にはない。

王府井に到着。角には大きなイベント会場が設置されている。オリンピックバレーチームの写真を頂いたゲートを潜る。この道の至る所にオリンピック関連の広告宣伝がある。横には新東安市場、しかし市場とは名ばかりの巨大ビルが改修中である。前には香港企業が設置した巨大クリスマスツリーもあり、子供たちが楽しそうに周りを走り回る。中国にクリスマスの習慣などあっただろうか??

ガイドブックによるとこのビルの前の道に『王府の井戸』がある。龍の蓋が被せられており、一般公開されているとある。しかしいくら探しても見つからない。何らかの理由で撤去されたのでは??1998年の区画整理の際に発見されたとあるが、現在もオリンピックを前にして改修が繰り返されており、その犠牲??になっただろうか??それともその井戸は間違いだったとして撤収されたのだろうか??

 

王府井の名前の由来は明代の永楽帝に遡る。親族から帝位を奪って北京に遷都した永楽帝は兄弟をこの辺りに住まわせた。王府とは皇帝の親族の住まいである。清代には八旗の練兵場となり、清末には大使館街(東交民巷)に近いことから、高級品を売る市が立ち、また同時に東安市場等庶民の市も立ったことから、北京の市場として栄えることになった。

井戸では甘水を売っていたそうだ。1954年まで売っていた記録があるからそう遠くない。それがどうして井戸が埋もれたのか??理由は分からない。

それにしても以前の王府井は人が多過ぎて歩くのが大変であった。それが現在ではおのぼりさんが来るところとなり、人数もそれ程ではない。熱気もあまり感じられない。庶民の味方であった東安市場もただのデパートとなり、北京人が来るところではなくなっている。

 

 

《北京歴史散歩2007》(3)国子監付近

【国子監付近】2007年5月27日

昨日の北京は37度、とうとう夏がやってきた。北京の夏は40度を越える猛暑。日中に散歩するなどはもっての外。朝起きると同時に家を出た。8時前で既に陽が燦々と降り注いでいた。地下鉄2号線で安定門下車。

 

1.京師図書館跡

安定門を二環路の内側へ歩く。日差しは強いが木々の陰を行くと爽やかな風が吹く。北京の乾いた夏の朝である。この雰囲気は嫌いでない。直ぐに永康胡同という名前に反応する。家内の大好きな香港歌手の名前である。早速写真を撮り、帰宅後直ぐにメールで送っておいた。

更に歩いて行くと『国子監』と書かれた石碑が壁に嵌っている。その道には大きな門が出来ていて『成賢街』となっている。牌楼と呼ばれるこの門は北京で唯一残されている。ここが天下の秀才が歩いた国の最高学府。

その南方家胡同に京師図書館があったはずだ。清の時代には蔵書楼の1つとしてここに南学があった。四庫全書など貴重な本が納められていた。清朝崩壊後、北洋軍閥が貴重な蔵書を引き継いだが、当時の蔵書楼、広化寺は湿気がひどく利用者が少なかったと言う。

そこで移転先として国子監南学が選ばれた。1917年の事である。その際移転計画に奔走したのがあの魯迅であったのは興味深い。しかしその後1931年までに全てが再移転され、その役割は終了した。

方家胡同は今もあり、地図では図書館のあった場所には小学校があるはずである。ところが胡同を歩いてみても、小学校の入り口が無い。どうやら廃校になったらしい。再度国子監街を歩いていると方家胡同小学と言う学校があった。恐らくはここに吸収されたのであろう。

 

因みに方家胡同には1918年毛沢東、蔡和森などが組織したフランス派遣留学生の連絡事務所があったとされているが、今は確認のしようも無い。毛沢東と魯迅が同じ道ですれ違った場面があったのでは??

2.国子監と孔子廟

国子監街は両側を木々に囲まれ、閑静な住宅街を思わせる。しかしこの辺りにも開発の波は容赦なく押し寄せており、通りの何軒かは改修中であった。以前の胡同、四合院などが次々と綺麗な建物に変わっていく。それは時の流れではあるが、少し物悲しい。

国子監の前に来ると何とここも改修中で、正門から入ることは出来なかった。仕方なく隣の孔子廟へ。入り口でおばさんが『全部改修中、何にも見れなけど入るかい??』と聞いてくる。10元払って中へ。

いきなり正面に孔子の像。その前に女子高校生ぐらいの3人組がなにやら真剣に祈りを捧げている。もう直ぐ受験シーズン。やはり合格祈願か?かなり長い時間頭を垂れたままである。

その両側には石碑の林が。科挙で都に上り、進士に合格した人々の碑である。元、明、清と揃っている。歴史上有名な人の碑の横には説明書の小さな碑が添えられている。私には知っている人はいなかったが、中国人は熱心にその説明を読んでいる。科挙の難度を考えると、ここに碑が残されている人々は如何にすごい人たちであるか。

孔子廟は元の時代、1302年の創建(完工は1306年)。1916年に現在の規模(2万㎡)・様式(三進式)となる。奥に入ると各地の孔子廟の写真が展示されている。中国だけではなく、ベトナム等にも広がる。そういえば、ハノイ旅行に行った時に旧正月の混雑の中を歩いた記憶が蘇る。子供達に亀の像の頭を撫でさせたのだが、ご利益はあったのだろうか??

硯水湖、と書かれた井戸がある。かつての文人たちがここの水で墨を磨ったと言われている。水を飲むと頭が良くなると言われており、多くの受験生が訪れるようになった。どれほどの御利益があるかは不明だが、孔廟文物管理所では硯水湖の水は生水なので飲まないように呼びかけているそうだ。

 

改修中なので早々に国子監へ。国子監も『集賢門』と呼ばれる正門が改修中。横から入るとすぐに鮮やかな瑠璃色の楼牌がある。その裏が主堂、周の天子の学舎を真似た建築。周りは円形の池『月の河』である。

更に奥には大学図書館であるい倫堂。歴史的には魯迅が歴史博物館の展示場とする準備を進めたことがあるが実現しなかった場所である。

国子監は1306年にモンゴル族の子弟に漢語を、漢族の子弟にモンゴル語を教える目的で建てられた。中国最古の大学。その後朝鮮、ベトナム、ビルマ、タイからも留学生がやってきてここで学んだ。この敷地内には琉球の留学生が学んだ記録もある。ここは国際色豊かな、賢者の集会場であったのだ。

3.留賢館

孔子廟の向かい側に古びた建物がある。茶芸館、留賢館。中に入ると実に緩やかな時間が流れている。ゆったりとして空間、落ち着いた家具。さすが孔子廟の前にあるだけはある??

名前の通り賢者を留める館である。一番奥の窓際に座り、鉄観音を頼む。50元程度で十分飲める。ここではお姐さんが茶芸を披露してくれる。一人で来ても話し相手がいてよい。香港時代の知り合いYさんにこのお店出身で最近お茶屋を始めた女性を紹介された。それが我が家のお茶会の先生となる張さんだ。

ここではお茶を飲むだけでなく、茶芸を教えてくれる。それも日本語で??張さんなき後日本語での講座は中止されているらしい。こんな環境でお茶を習うのは気持ちがよさそうだが。簡単な食事も出来る。日がな一日、ボーっとここに座っているのも良いかもしれない。窓から孔子廟が見える。

4.擁和宮

擁和宮は北京最大のラマ教寺院。この地は明代宦官の住居、清代は5代雍正帝が親王時代の住居であった。雍正帝は綱紀粛正に極めて熱心で帝位に付いた後、この地に秘密警察を設置、厳しく取り締まった。雍正帝が死去した際、葬儀の後、1年余りここに遺体が安置されたと言う。

 

1744年乾隆帝の代に雍正帝時代の弾圧に対する宥和政策及びチベット、モンゴル族の不満解消のために寺院が建造された。現在寺院周りには仏具や線香を売る店が立ち並び、北京の中でも独特な雰囲気を持っている。

瑠璃牌門を潜ると参道の両側に木々が生い茂り、良い風が吹いてくる。天王殿、雍和宮、万福閣共に黄色い屋根瓦、皇帝の色である。本殿の当たる雍和宮には過去・現世・未来を現す3体の仏像が安置されている。万福閣には高さ26m、チベットから運ばれたと言う白檀の一本木による弥勒仏が安置されている。聳え立つこの仏像を見ていると、ラマ教の厳しさを感じる。

中野江漢に連れられてここを芥川龍之介が訪れている。彼はラマ教等には何の興味も無く、寧ろ嫌いであるが、北京の名所で紀行文を書く必要上、已む無く出かけたと書いている。行って見ると歓喜仏が4体あり、金を渡して見ている。なかなか凄い物だったようだが、共産中国以降このような快楽に関係する物は公にされていない。芥川によれば、それは決してエロチックではなかったというが。

思い出すのは20年前、チベットのラサに行った時の事。ポタラ宮に登ると、建物の壁画に何故か一部紙が貼ってある。そしてその紙は捲って見ることが出来るようになっていた。まさに密画と呼ばれた男女混合図などであった。首都北京では公開不可であろう。

 

またダライラマは1954年北京にやってきてここに滞在した。『ダライラマ自伝』によれば毛沢東や周恩来とも親しく交流し、教えも受けたという。しかしその後のチベット暴動、インドへの亡命となる。

そもそもラマ教とは何だろうか??ラマと言う言葉はチベット語で優者を表し、仏の上に位置する。7世紀にインドから伝わった仏教とチベット在来宗教が混在したものらしい。14世紀には宗教革命があり、戒律の厳しい現在の黄教が主となる。ダライラマの属する派である。

 

1987年留学中に訪れたチベットのラサは衝撃だった。これ以上ない青い空、青い水、それに引き換え黙々と五体投地を続ける信者、その横で貧しい姿で物売りをするその妻と物乞いする子供。宗教とは何か、考えさせられた。そんなことを思い出していると、若いラマ僧がスーッと横を通り過ぎた。まるで何事も無かったように。

 

《北京歴史散歩2007》(2)寛街

【寛街付近】2007年11月3日

11月初旬、最低気温は氷点下に下がり、既に季節は冬。今年の歴史散歩も時期が過ぎたと諦めかけていたが、何と今日は一日時間が取れ、しかも日中暖かい絶好のお散歩日和。この日を置いてはない。北京で一番のお気に入り、寛街を目指した。

 

寛街は行き難い場所。いつもはタクシーで行くのだが、今回は地下鉄で。建国門から一駅歩き、東単に。10月にオープンした地下鉄5号線の駅がある。何と入り口も新しくなっている。新地下鉄はこれまでの4線と異なり、ホームに二重ドアが設置されている。転落防止だが、シンガポールやバンコックで見た物と同じだと思う。この5号線により朝晩の交通渋滞が多少緩和されたらしい。

(1)北洋軍閥政府

地下鉄の新駅、張自忠駅で下りる。地上に出てくると正面に北洋軍閥政府の国務院があった洋館が見える。かなり古ぼけているが、現在も使っているのだろうか??

北洋軍閥とは元々袁世凱が清朝末期に北洋大臣に任命され、その後軍を纏めて清朝を倒し、最後は中華民国総統を目指すまでになる。しかし1916年袁世凱が亡くなると分裂を繰り返す。孫文が北京にやって来た時期は丁度段祺瑞が臨時執政として政権を担当していた頃だ。

 この重厚な建物は当時異彩を放っていたことだろう。特に清朝滅亡後も溥儀は紫禁城に留まっており、古い体制を打破する建物であっただろう。

 

 

この建物には孫文も来訪したらしい。孫文はそこで何を見ていたのか??『革命未だならず』の有名な言葉を残して北京で亡くなったのだが、その胸の内はどうだったであろうか??若い妻宋慶齢の事が心配だったか??(この夫婦は英語で会話していたらしい??)

 

孫文の遺体は当時の中央公園に安置された。今の中山公園は孫文の名前から取られ、改名されたものである。

現在この建物は国務院が使用しており、参観できない。残念。そしてその門の脇には小さな石碑が。『3・18事件』、1926年この地で軍閥政府に対して反日の抗議に立ち上がった学生、市民など47名が殺され、160名が負傷する惨事が発生。魯迅は『民国以来最も暗黒の日』と呼んだ事件である。その後1928年に張作霖が奉天で爆殺され、北洋軍閥は終わりを告げた。

(2)欧陽予倩故居

旧顧維釣邸から西へすぐ、低いがお洒落な建物(お店)が連なっている。その中心に『欧陽予倩故居』と書かれている。欧陽予倩とは誰であろうか??恥ずかしい話だが初めて聞く。本によれば『南欧北梅』とある。北の梅とは京劇の名優梅蘭芳のこと、すると南の??

彼は湖南省の出身、1949年に北京にやって来て中央戯劇学院の校長となった。彼は京劇の名優であったと同時に京劇、話劇の指導者であり、この分野の貢献は梅蘭芳をしのぐと言う事である。

15歳で日本に留学。日本時代に春柳社という話劇の団体に参加、これは中国人で最も早く話劇に参加したことになる。帰国後も上海で話劇『新劇同士会』を結成。この家には1949年から亡くなった1962年まで滞在。郭沫若、田漢、老舎など著名人が集ったという。日本の松山バレー団もやって来たらしい。

 立派な門構えの下の扉が開いていた。つい中に入る。瀟洒な洋館が目に入る。その前で数人が談笑していた。玄関前に洗濯物が干してある。ここは一般人の住居である。入ってきては行けなかった。しかし彼らは私を一瞥したが、誰も咎めなかった。本によればここは戯劇学院の職員の宿舎らしい。

練炭が積まれている。かなりこじんまりしたこの空間は結構安らげる。特別な保存はしていないらしいが、そこがまた良い。

(3)和敬公主府

更にその隣に和敬公主府と書かれた入り口があったが、きつく閉じられていた。入れないのかな、と思ったが、隣に和敬府賓館と書かれた入り口が。中に入ると何故か『中信証券』の看板が??中信証券は中国有数の証券会社だが、何故ここにあるの??結局本日は休日でオフィスすら分からなかったが、どうやらここで投資信託を売っているらしい。和敬公主は清朝乾隆帝の第3皇女、その由緒ある王府の中でちょっと不謹慎では??

 中は三進式の四合院造り。真ん中は清末の建築でその風格を残している。また至る所に獅子や龍の像が置かれている。一番後ろは和敬府賓館というホテルになっている。このホテルへの道が銀杏並木、丁度葉が色付いており、紅葉を見ることが出来た。

 

(4)文天祥祠

張自忠路を西に歩き、北に折れることが出来る道で曲がる。そこは昔の中国の路地。胡同には曲がって伸びた木が道を塞ぎ、少し歩けば道の両脇で野菜や果物を売っている。以前夜ここを歩いたことがあるが、あの暗さはまるで80年代の中国を再現したセットのような雰囲気があった。

 

 府学胡同、府学とは順天府学のこと。元々元代には寺があったそうだが、明代に学校へ。現在も府学胡同小学校と書かれており、学校である(現在入ることは出来ない。横には南宋民衆の英雄、文天祥の祠(記念館)がある。

 

中に入るとこじんまりした庭が。壁には有名な『正気の歌』が彫られており、正面には碑が。丁度の庭の柿木の柿が色付いている。1つ貰いたいような、美味しそうな柿であった。門の裏には『浩然の気』と書かれた額もある。孟子の言葉だそうだ。

 

 文天祥は優れた官僚だったが、元との戦いに参戦。囚われの身となり拷問も受けるが、彼の才を惜しむクビライハンの誘いを断り、最後まで帰順せず、柴市で処刑された人物。その気概は凄まじいものがあったようで、大石内蔵助が愛唱したとも言われている。

奥の庭には、文天祥自らが植えたとされる棗の木が枝を大きく広げて伸びている。ここは文天祥幽閉の地とされている。この木は文天祥の代わりに今も生きていることになる。

尚芥川龍之介は『北京日記抄』の中で文天祥祠を訪れたと書いており、『英雄の死も一度は可なり。二度目の死は気の毒過ぎて到底詩興などは起こらぬもと知るべし』としている。

(5)都江園

交道口という道がある。ここにはトロリーバスも走っており、木々もかなり枝を伸ばして、80年代の北京の風景を演出している。このあたり寛街は胡同も昔のまま保存されており、私の好きな場所の一つである。

本日このあたりを歩くと至る所で地面が掘り返されている。オリンピックに備えて補修工事をしているのだろうか??この辺りは西洋人観光客が多い場所であるからありえるかもしれない。

都江園は私が北京に来てから最も多く通ったレストランである。半年で20回以上??このレストランは四合院造りを改造しており、胡同の中にあること、及びメニューがコースのみで注文する手間が省ける上、何よりも料理が美味いことから、北京を知る上で是非とも連れて来たい場所である。

都江園は四川省の世界遺産である水利施設『都江堰』(成都の西北60キロの都江堰市の西に位置)より名を取った。都江堰が作られる前、岷江はしばしば氾濫して災難を引き起こしていたが、今から約2250年前の秦の昭王の時代に、李氷とその息子が先人の治水の経験を生かし、地元住民を率いて水利工事に着手。その主要な工程は、「魚嘴」という堤防を川の真中に建造し、川の流れを真中で分けたことで、激しく沸き立つ岷江を外江と内江に仕切り、外江で余分な水を排し、内江で水を引いて灌漑に利用した。これらの水利施設以来、成都平原の肥沃で広大な平野は、豊かな土地となり、四川省の経済、文化の発展に大きな貢献を果たしたといわれている。

という訳でここは四川料理屋であるが、夜のライトアップが美しく、また閑静な場所にあることから西洋人の利用客が多く、頼めば辛くない四川料理が出て来る。しかもこれが美味しい。更には極めつけのタンタン麺はスープ麺で、肉味噌とピーナッツで味付けしたスープにソーメンのような柔らかい麺が絶妙。

昼間もオープンしているがお客は殆どいないので、顔馴染みの店員に建物の由来を聞くと『100年以上前の建築。清末の将軍が住んでいた。その将軍はモンゴルと戦ったと聞いている。』とのこと。アンティークな家具が配置され、何ともいえない優雅な雰囲気の中で今日は特別にタンタン麺だけを作って貰った。その美味さに思わずスープも飲み干し、後で痛い目にあってしまったが??

(6)南鑼鼓巷

都江園から西に歩くと直ぐに四合院ホテルとして有名な侶松園賓館がある。ここは僧王府と言われたモンゴル親王、僧格林泌の邸宅の一部を改造したもの。ここのお客さんは殆どが欧米人。日本人はあまり見たことはないが、ガイドブックには必ず載っている。中庭に実に気持ちよい空間が存在し、夏の夜などはキャンドルライトでビール等を飲む姿がチラホラ。欧米人は旅の楽しみを知っていると思う瞬間である。

更に西に行くと流行のスポット南鑼鼓巷。ここには欧米人が好きそうなバーが立ち並び、それに釣られてちょっと粋を自称する中国人の若者が集まる。しかしこの週末の昼下がり、開いている店も少なく、人影もまばら。

先日出張者を案内して夜あるバーに入ると『2階へどうぞ』と言われる。あれ、2階なんかあったけ??と思って階段を登ると何とそこは屋上。薄暗い中に数々の家具が雑然と置かれ、ソファーに腰を落ち着けたが、何とも落ち着かない。月明かりもなく、暗闇バーとなっていたが、東京から来た人間には新鮮だった様だ。

南鑼鼓巷を北に上る。東西の道はどこもかしこも道路工事中。若干興ざめするものの、歩く。そういえば南鑼鼓巷は別名をムカデ街と呼ぶそうな。理由はこの道を中心に両側に沢山の胡同が展開されているから。そして最後に目指す後円恩寺胡同へ。小さな入り口に『茅盾故居』とある。

(7)茅盾故居

茅盾、この革命作家については良く知らない。恥ずかしい話だが、作品を読んだこともない。『子午』『蝕』『林家鋪子』など有名な作品がいくつもあるのに、一度も手を出さなかった。何故だろうか??

茅盾の故郷は浙江省桐郷県烏鎮。太湖の南岸に位置する水の豊かな田舎町。その風情が展示室に写真で飾られており、興味を引く。共産党結党と共に入党したが、その後日本にも亡命。文革の嵐の後、息を引き取る直前に共産党党員資格を回復する等数奇な運命を辿っている。

 故居には晩年孫と遊んだ小さな庭があり、胸像が配されている。奥には住居があり、入ることは適わないが、書斎、客間、居間が全て生前のまま保存されている様子が見える。戸外には奥さんが買ってきたと言う旧式の冷蔵庫が大切に??放置されている。

 

心地よい午後の日差しを浴びて、この殆ど人影のない庭で欠伸をすると、北京も満更ではないな、と思えてくるか不思議である。

(8)友好賓館
茅盾故居の横に立派な洋館が建っていた。その名を見てビックリ。友好賓館、しかもその看板には日本料理割烹白雲の字が。

白雲と言えば、1986年初めて北京に来た際、寿司をご馳走になった場所。上海に日本料理屋が無かった時代、北京まで食べに来たのだ。創価学会系ということで特別に認められ、大連から新鮮な魚を輸入しているとのことで、その夜は大満足だったことを記憶している。

1984年に北京には既に3つの日本料理屋があったと知人が言う。北京飯店の五人百姓、建国飯店の中鉢とこの白雲。私はこの全てを1986年に体験していたが、場所が分からなかったのは、この白雲だけ。

その薄暗い胡同はどこにあったのか??前回の駐在の際も思い出してみるものの結局探さなかったその場所に居間偶然辿りつたのだ。歴史散歩の面白いところである。80年代に北京に住んでいた日本人なら誰でも知っていたレストランであるが、時代は流れた。

本日中に入ろうとしても門は硬く閉ざされていて入れない。既にレストランだけでなく、ホテル自体が閉鎖された物と思われる。門から中を覗くと柳がしな垂れ、その後ろに洋館が見える。しかしプレートには四合院の文字がある。西側が見事な四合院だそうで、東側には円明園から運んできた築山もあると言う。見られないのが残念である。

因みにここは1875年にイタリア人により設計され、乾隆帝のひ孫が住んだらしい。ところがこのお坊ちゃんは博打好きで借金のカタに屋敷を手放し、その後持ち主が転々、蒋介石が別邸として使っていたことでも有名。歴史的な場所がまた一つ役割を終えた。