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新疆北路を行く2011(10)伊寧 感動の十二ムカム生演奏

(4) 砂絵

かなり暑さを感じる昼前。ウイグル族のやっている画廊を訪問。ここは観光スポットにもなっているようで、漢族の観光客も出たり入ったりしていた。ここでは特殊な絵が作られていると言う。

当地の風景を描いた絵が部屋の壁中に飾られていた。がよく見るとギャラリーに飾られている絵は全て砂で作られていた。タリム盆地の砂だと言う。砂漠の砂を使うあたりはウイグルらしい。この絵は一人の人が作るのではなく、共同作業で製作していくらしい。しかし中には障碍者が作った絵もあり、名前が書かれていた。色々な形態があるのだろうか。

N先生は気に入った絵があるようだが、大き過ぎて荷物として持ち帰るのは辛いらしい。郵送もすると言われるが、妥協して小さな絵を購入。これはよい記念になるのではないだろうか。

それから昨晩行ったレストランにまた行き、今度は屋内で食事をした。ラマダンのため、流石に昼、外で食べさせるのは憚れるのだろう。この日はデザートにアイスクリームが出て来たが、これは非常に濃厚で美味しかった。

バスの駐車している場所まで馬車に乗ることにした。ゆっくりゆっくり進む馬を後ろから眺めていると妙に落ち着く。馬車が日陰には行った時、爽やかな風が通り抜けた。ウイグルを感じた。

(5) 村に出現した巨大工場

午後は伊寧郊外に行く。どこへ行くのだろうか。昨晩もご一緒したS氏の友人を拾い、北西へ車は進む。40分ぐらいすると田舎町が見えた。そしてそこから更に農村部へ。舗装されていない道路をデコボコ進む。

しかしこんな田舎に何の用があるのだろうかと訝り始めたその時、目の前に巨大な門が見えてきた。あれは一体何であろうか。周囲は高原のようになっており、何もない中、その場所の一群だけが、異様な感じで建物が建てられていた。

門を潜ると、左右に平屋だが相当大きな建物がある。正面には更に柱の太い、大きな建物が。ここは何なんであろうか。まるで北京の天安門広場を意識したような造りである。よく見ると看板があり、企業集団と書かれている。この地方の街にこのような巨大な設備を持った工場があるのだろうか。よくよく見ると向こうの方に工場が建設中であることが分かる。正面の建物はオフィスなのだろうか。

中に入るとコンパニオンがマイクを持って、案内に立つ。1階の広いスペースが会社紹介となっていた。皆必死にこの集団が何であるかを確認に走る。この工場が完成すると16,000人の雇用が生まれると言う。当然この村だけでは賄いきれいない。両脇の建物はそのための従業員宿舎。その規模は壮大で信じられない。

ようやく化学プラントであることは分かったが、創業者の名前を聞いてもピンとこない。これは調べないと分からない、と思い、後日検索してみたが、やはりよく分からない。新疆には資源目当ての漢族の投資が次々に投入されているとは聞いていたが、これだけ規模の大きな、何百億元という単位の投資を目の当たりにすると、政府の意図が分かるような気がする。

この工場群の周囲をバスで1周する。途轍もなく広い。更には先ほど入った巨大な建物の裏にもう一つ迎賓館のような建物が見えた。集団総裁の執務室だと言う。一体どんな人間なんだ、こんな所にこんなものを作るのは。基本的には内モンゴルで成功した漢族の投資とのことであったが、その実態は最後まで謎であった。

建設中の工場を眺めながら、銀行時代のプロジェクトファイナンスを思い出す。タイや台湾、韓国などで10年以上前、こんなプロジェクト予定地を視察、数字を弾いて融資するかどうか決めていた若き日の自分を思い出す。あの頃は物事を単純に考えていたな、今ではとてもこのようなプロジェクトに巨額な融資は出来ないな、と感じてしまう。規模が大きければ良いと言う論理と、それを恐れてしまう今の自分、どちらが正しいのだろうか。

(6) 感激のもてなし 十二ムカム

工場のあまりの規模に圧倒され、早く伊寧市に戻りたいと思ったが、前の車が先導してどこかへ行く。確か前には女性が乗っていたような、あれは誰だ。

街中へ行く。ある家の前に車が停まる。何でもモデルハウスだと言う。何のモデルハウスだろう。きれいな庭にきれいな家、貧困の村を救う政府の政策だろうか。説明を聞き損ねたので詳細は分からない。

彼女の正体が分かった。何とこの県政府のトップ常務委員さんだった。まだ30歳代ではないだろうか。ウイグル族出身の彼女は苦労して天津の南開大学に進み、地元に戻ってからは、党学校の教師をしていたらしい。それが先日抜擢されてこの県に赴任してきたとか。新しい力が必要なのであろう。

食事の場所として連れて行ってくれたのは、閑静な庭園を持つ、リゾート風宿舎。池などが配されたその庭を歩いて行くと、大きな屋根の下に桟敷がある。絨毯も敷かれている。この自然空間の中でご飯を食べる、と想像しただけで嬉しくなるような場所であった。更にその桟敷には先客が3人いた。県のお役人だろうか、などと思っていると、常務委員が「彼らはウイグル伝統音楽の奏者です」と紹介。確かに脇には楽器らしきものが置かれていた。

話の中に「十二ムカム」という言葉が出て来た。1547年、音楽と詩歌をこよなく愛するアマンニサと言うウイグル女性が新疆ヤルカンド(現在のカシュガル地区莎車県辺り)にあったヤルカンドハン国の王妃になり、多くの楽師やムカム音楽家を集め、大規模な整理作業を行い、その規範化を実現。歌詞の中にあった難解な外来語や古ウイグル語の単語、さらには古い宮廷詩的修辞などを取り、完全且つ厳密な構造体系を持ち、口語的で分かりやすい全く新しいムカムを誕生させた。

19世紀にはムカムはしだいに12曲の組曲に編成され、一曲ごとの組曲の演奏には約2時間を要した。この洗練されたムカムが『十二ムカム』である。従来は師匠から弟子への口承のみであったが、新中国ではそれを録音するなど保存に努めている。

その演奏は見事であった。日本人と言うことで、すばるや赤い絆など、日本の曲も披露された。やはりプロである。「日本にはもったいない、という精神があると聞いた。コーランの教えにも同じ物がある。相通じる」そして我々の希望を聞き入れ、食事の量を少量にしてくれた常務委員さんの心遣い、とても嬉しくなってしまった。爽やかな風が吹き抜ける桟敷の上で強かに酔ってしまった。

8月20日
(7) 帰路

翌日は朝早く出発した。それは私が青海省へ行くために、飛行機の時間に間に合うように皆さんが協力してくれたせいである。朝7時出発、これはこの地区では驚異的に早い。周囲は真っ暗。それでも漢族観光客は我々より先に出発して行った。彼らの観光は一日いくつ回るかが勝負。すごい。

今日の行程はウルムチ市に戻るだけ。その距離、680㎞。予想時間は10時間。これは長い。朝飯もない。どうなるんだろうか。兎に角先ずは寝る。皆ひたすら寝る。運転手だけが可哀そうに懸命に車を走らせる。

途中朝日が昇る。良い風景だ、西の大地に朝日が昇る。殆ど対向車のない道路をバスはひた走る。2時間半ほどして、最初のトイレ休憩。ガソリンスタンドの後方には4000m級の山がそびえる。今日は天気も良く、実にクリアーである。

またバスに揺られて2時間、高速道路を降りる。昼飯かと期待したが、なかなかレストランに入らない。どうやら当地の名物、大盤鶏という料理のいい店を探しているようだ。この辺のこだわりは凄い。ラマダン中でもあり、中には店を閉めている所もある。ようやくバスが止まり、店に入る。かなり繁盛しているようで、席が外まではみ出している。

その大盤鶏は鶏を一羽潰して、ジャガイモなどの野菜と唐辛子などを煮込んだ物だったが、実に満足できる味だった。食べている時は大粒の汗が出るほど辛いが、これは癖になる。更には残った汁の上から太い麺を掛け、混ぜて食べる。もう堪らない。こんな料理が日本で出せるのであろうか。新疆で食べるから美味しいのであろう。

今月はラマダンのため、午前中しか営業しない、と張り紙があったが、午後2時を過ぎても大繁盛であった。新疆時間ではまだお昼だったか。ここの食事ではビールが進む。久しぶりに昼から酒を飲み、そして大量の汗をかく。バスに乗り込むとすぐに寝る。

次にトイレ休憩があった時、持ち込んでいたスイカが切られた。J氏は器用にナイフを使い、鮮やかに切った。このスイカは酒を飲んだ後で、甘くて美味かった。こんな豪快な食べ方も久しぶりだ。

そして運転手の努力もあり、午後5時にはウイグル市内に入り、空港で降ろしてもらった。私の新疆北路は終了した。





新疆北路を行く2011(9)伊寧 絶品カバブーと羊スープ

4.伊寧
(1) 外国人が泊まれないホテル 

とうとう西の端、伊寧市に到着した。今回の旅は僅か170㎞だったが、時間的には相当に掛かった。道が悪いと言うのは大変なことだ。まだ陽のあるうちに着いたのが救いだった。ホテルには当地の旅行社の人間が来てアレンジをしていたが、我々を見て驚いた顔をした。何故だ。J氏、S氏と旅行社の人間は協議に入った。何か問題が発生したのは確かだ。聞けば、予約したホテルは外国人を泊めることが出来ないと言う。何と時代錯誤な、20年前の中国がそこにあった。

勿論日本人だけではなく、外国人は指定されたホテルに泊まらなければならないらしい。この制度は今年始まったのではなく、3年前からあるそうだ。こちらが予約した際、人数しか言わず、外国人がいることが分からなかったのが原因らしい。それにしても、夏のベストシーズンに、少なくとも我々日本人4人分の部屋がこの時間に確保できるのか、ちょっと心配になる。

30分ぐらい待っていると、J氏が済まなそうにやって来て、「4つ星ホテルの部屋は全て満員で、三ツ星になりました」と言う。こちらは泊まれるかどうかの問題であり、部屋があればそれでよかった。しかしこの辺境の地、それほどに漢民族は少数民族を恐れ、外国勢力との結びつきを恐れているのだろうか。花城賓館という実に昔懐かしい中国のホテルにチェックインした。

特に期待はしていなかったが、残念ながらネットは繋がらなかった。それは設備がなかったからではなく、普通なら線を繋ぐだけで良い所を、複雑な番号を入力しないと繋がらない仕組みになっていたからだ。中国でもこんな番号は見たことが無い。係員を呼んだが、私のPCを見て、日本語は読めないからお手上げ、と言って帰ってしまった。この暗号は何を意味するのか。確か他の国でも情報統制がある場合はこのシステムだったような。そして現在のWindows7というソフトには以前のようにこの暗号を入れる仕組みが見出せない。どうなっているのか??

(2) 気持ちの良い夕食と屋台(子供働く)

ここでもS氏の友人のウイグル人が登場し、我々をレストランに案内してくれた。流石に中国の西の端、まだまだ空は明るい。ラマダン中でもあり、どうかと思ったが、外国人と言うことで、店の外の木の下にある気持ちの良い桟敷に落ち着くことが出来た。但し喫煙は厳しく制限された。外を歩くウイグル人への配慮であろう。

店の外にはカバブーを焼くブースや茶を入れる薬缶が並べられた場所がある。まだ稼働はしていなかったが。我々の目の前には早々にリンゴとプラムが運ばれてくる。これまでのスイカとハミウリの組み合わせから変わった。飲み物はヨーグルト。嬉しい美味しさである。

気持ち良い夕暮れの風が吹く中、外で食べる食事は実に美味しい。カバブーも殊の外柔らかく美味しく感じる。店内でトイレを借りると、この店がとても立派な店であることが分かる。ちょうど日が落ち、沢山のウイグル人が食事を始めたが、食の豊かさが見えていた。

レストランを出てイリ川の橋を渡る。この大河は濁流のように勢いがあると聞いていたが、真っ暗で何も見えない。ただ川の音がするのみ。橋の袂には検問があり、バスはそれを避けて、遠くに駐車する。ここは市内に入る要所であろう。若干緊張感がある。

ホテルに戻り、コーラでも買おうと外へ出るとN先生やJ氏がちょうど、ホテル前の屋台に繰り出すところに出くわし、付き合う。夕方は何もなかった道端に多くの店が出て、いすやテーブルが出され、大勢の人がビールを飲み、カバブーを咥え、夏の夜を謳歌している。

よく見ると店では子供たちが良く働いている。中学生ぐらいのおにいちゃんは既に一人前にカバブーを焼き、小学生ぐらいの女の子は注文を取る。もっと小さい子は片づけをし、皿を洗う。おじいさんの白い帽子は回教徒か。貧しい暮らしなのかもしれないが、それが何故かとても羨ましく見えてしまうのは私だけなのだろうか。

8月19日(金)
(3) ウイグル系市場の豪快な朝食

翌朝、ホテルの朝ごはんも味気ないというN先生の主張が通り、S氏友人の案内で、ウイグル系市場へ向かう。途中歩いた道が北京の胡同のような雰囲気で、何となく好感が持てる。四合院と同じような作りで、中に何家族か暮らしているらしい。やはり古い街なのであろう。

市場の店先には羊が沢山吊るされていたが、人影はまばらでひっそりとしていた。既にひと仕事終わったのだろうか。我々は一軒の店に案内される。店の入り口では大きなドラム缶鍋?に羊の肉と骨がぶち込まれ、豪快に料理されていた。湯がいた骨付き肉は端に出され、そこにナンが並べられる。このエキスをナンに吸わせるのだろう。

そして我々がありついたのが、その骨付き肉。ニンジンなどの野菜も一緒に煮込まれており、大盛りで登場した。この肉は柔らかい。そして臭みなどは全くなく、むしろ甘い。また羊でだしを取ったスープも一口飲んで幸せが感じられる絶品。コクがあるがあっさりしている。これは朝からトンデモナイ物に出会った。

ミルクティーも丼で出て来た。煮出した茶にミルクパウダーを入れ、塩を混ぜる。これは豪快な作り方だ。ヤギの乳があればそれを入れるらしい。味は少ししょっぱいが、味わいがある。

爽やかな朝に爽やかない朝食、これぞウイグル、と言える料理ではなかろうか。肉汁の沁み込んだナンを食べながら、幸せを噛み締めた。




新疆北路を行く2011(8)博楽 アラシャン口岸で行く手を阻まれる

(2) ウイグル人医師の嘆き

ここでもウイグル人にお世話になる。今回はお医者さんだった。日が落ちると市内中心部で食事をした。「ここは小さな街で」と言うが、本当に小さな街だった。小さな店に入り、シシカバブーを頬張り、ラグメンを食べる。既に常態化した美味しい夕食だ。

お医者さんは言う。「地域医療は本当に大変だ。昔に比べて病気になる人が増えている。医師の数は足りない。若者は皆都会に行ってしまう」どこかで聞いた光景である。少数民族も以前とは生活形態が変化し、それに対応できずに病になるのだろう。病の急増は体ばかりではなく、心にも及んでいる。経済が発展すると言うことが本当に人間にとって幸せか、との問いにはっきりした答えが出せない。

「日本にも行って見たいが、忙し過ぎる」というお医者さん、実にしっかりした人物である。聞けば、今日泊まっているホテルで明日地区の共産党会議が開催されるが、そこのメンバーでもある。本当に忙しい中、我々の為に食事を付き合ってくれていたのだ。「明日会いましょう」と言って早々に別れる。その後ろ姿に、疲れと諦めを見たのは私だけだろうか。

8月18日(木)
(3) アラシャン口岸

我々は何故博楽にやって来たのか、正直ここに見るべきものはない。それは今回の調査の主眼である辺境調査、ようは国境へのアクセスの為である。カザフスタンと国境を接するアラシャン口岸は博楽から40㎞の距離。朝からそこを目指して出発する。同行する地元の人も別の車で先導してくれる。

バスは順調に進み、国境近くの検問所にやって来た。流石中国の国境、かなり厳しい検問だなと待っていたが、我々の車だけが一向に通過できない。他の車が去るのを眺めながら嫌な予感が走る。

それから少しして、ようやくバスが動き始めた。よかった、関門を越えたと思ったとたん、道に脇に駐車していた車から若者が手を振り、バスを止めた。バスに乗り込で来た険しい表情の若者は誰であろうか。ウイグル人であるらしく、J氏、S氏とウイグル語で話していたい。途中で急に両者の声が和んだ。何と財経大の卒業生だと言うのだ。

では、これから先は何とかなるのだろうか。そう簡単に事は運ばなかった。我々のバスは若者の先導で、公安に誘導され、そこで「口岸付近を1周すること、駅前広場と土産物売り場への立ち寄り、写真撮影」が許可されただけであった。調査どころではない。というか、こんなに厳しいのに、辺境貿易が正常に行われている訳がない。

土産物売り場にはロシア製品と思われるチョコレートや工芸品、衣服などが置かれていた。売り子の英語は片言。基本は中国語を話したが、お客は殆どいなかった。駅も表示を見るとカザフからの国際列車が一日1-2本通過しているようだが、人気は全くなかった。貨車が中心であろうか。街を1周したが、普通の街と変わりはなかった。ただ人が殆どいなかっただけ。我々は記念写真を撮り、早々に引き揚げた。

最近カシュガルやホータンで、テロ事件が発生していた。この件と関係があるのだろうか。説明は一切ない。兎に角過敏になっていることだけが分かる。この結果、明日行くはずだったもう一つの国境、コルゴスへの訪問も断念した。新疆の厳しいさを見た。

皆ガッカリしながらバスに乗る。近くになった皮革工場にはアポが入っており、案内してもらえた。しかしどのようにしてこの場所を確保できたのかなどの疑問には曖昧な答えのみ。やはり国境には複雑な事情がありそうだ。

(4)涼皮と嵐

今日の目的地、伊寧に向かう。ただ博楽に戻り、また高速に乗るのはつまらないと言うことで、北側を通りサリム湖へ向かう。ここには高速はない。運転手は何となく嫌がっていた。何故か。

昼ごはんは地元の人が教えてくれた麺を食べる。道沿いになかなか味のあるお店。外国人が来ることなど、滅多にないようで、夫婦が大慌てて支度にかかる。涼皮と書かれている。涼皮とは小麦で作る春雨の太いの、というイメージか。上に肉片を乗せ、熱々の涼皮が登場した。スープはコクがあり美味い。付け合せの漬物が絶品。炭火で焼いたナンも焦げ目があって美味しい。やはり地元の人が連れて行く店だけのことはある。

天気が急速に悪化してきた。突然の変化はまるで山の気候。この辺りは4000m級の山が近い。大粒の雨が降り出した。私はトイレに行きたくなり外へ。そこへ凄い突風が吹き、危うく吹き飛ばされるところであった。このあたり、遮るものは何もない。慌てて店に飛び込み、しばらく茶など啜っていると、嘘のように収まり、そして晴れて来た。通り雨にしては激し過ぎる。新疆の気候の恐ろしさを垣間見た。

店を出てバスに乗るが、直ぐにガソリンスタンドへ。そこでは素晴らしく晴れた山並みの景色が見える。驚くほどの変化。その辺に停まっている大型バスは軒並み後ろを開けてオーバーヒートに備えている。雨が降った様子は全くない。我々は幻を見たのだろうか。

(5)サリム湖 馬オジサン

天山山脈の山中にあるサリム湖は標高2000m、新疆で最も高い所にある湖。サリムとはモンゴル語で「屋根の上の湖」という意味らしい。湖は青く澄みきっており、いかにも高地の湖らしい。周辺は牧草地帯、いくつものゲルが見られ、遊牧民が羊を追っていた。

湖の風景も美しい。水も透き通っている。ここには汚染というものが感じられない。バスが止まったので降りる。そこにはモンゴル族と思われるオジサンがただ一人、馬を引いて待っていた。好奇心旺盛のN先生、早速馬に乗る。1周2元とか。こんなので商売になるのだろうか。

オジサンに聞いてみると、昔は多くの観光客が馬に乗り、一日で500元稼いだこともあったそうだ。2元なら、250人が乗った計算になる。最近は商売にも陰りが見えているらしい。実はこの場所は多くのバスが停まる場所ではない。オジサンは賭けに出ていたのだ。競争を排除し、少なくても客を独占する。

N先生とオジサン、意気投合してタバコを分け合う。タバコを吸うオジサンの後姿が実に哀愁を帯びていて、何とも言えない雰囲気がある。この美しいサリム湖とオジサン、そして馬、何とも言えない味わいがある。しかしもう少し経つと道が良くなり、オジサンはいなくなり、この風景も失われてしまうだろうか。寂しさを感じる。

綺麗な湖を後にして、そして我々は苦難にあった。山越えの道が相当に悪いのだ。昔はもっと悪かったといい、現在改修中の場所が多い。それはそれでデコボコなのだ。1時間ぐらい揺られただろうか。平らな道に出た時には腰が相当にいかれていた。

新疆北路を行く2011(7)石河子 新疆兵団の街

8月16日(火)
2.石河子 (1)石河子は80年代の中国

翌日午前中はウルムチ市内の企業を3社回り、そのままウルムチを後にする。いよいよ新疆北路を行く、旅が始まった。この1週間は、小型バスを借り切り、J氏、S氏、そして運転手さんと共に旅を続けることになる。

道は真っ直ぐ西へ延びている。本日の目的地は150㎞離れた石河子市。何でこの街へ行くのだろうか。私は事前に各訪問地に関して何の予備知識も与えられてはいなかった。それが良いと思って敢えて聞くこともなかった。片道2車線の高速道路をバスは疾走する。周囲の風景は原野、といった様相で、砂漠でもなく、耕地でもない。シルクロードと言うイメージからも少し離れている。双方向共に車は多くない。

少し緑が出て来た。水田が見える。空も青い。もうすぐ石河子市だと言う。都市の周囲に緑があるのは、オアシス。やはりここにはシルクロードのイメージがある。2時間弱で市内に入る。街は大きくはないがゆったりしている。どこかで見たような・・。この風景を説明することは難しいのだが、何となくこの街には昔の中国の街のにおいがする。80年代、私が留学していた頃に旅した都市の香りがする。何故かはわからない。そんなことを考えていると、ホテルに到着。

ホテルの周囲も昔の雰囲気だった。冷たいコーラでも買おうと思って歩いたが、冷蔵庫があっても電源が入っていない。店の人もゆったりと構えていた。子供たちが楽しそうに遊んでいる。実に不思議な街だ。

(2)新疆兵団

博物館に向かう。新疆兵団軍墾博物館。新疆兵団とは、日本では馴染みがないが、建国後、新疆での治安維持と開拓を進めるべく、組織された日本でいう屯田兵制度。軍の兵士が帰農し、国境などで変事があれば兵となる。この複雑な国際環境を持つ新疆で、特に建国直後は様々な問題があったであろうから、兵団の意味は大きい。同時に未開の地に、鍬を入れ、開拓した土地もかなりに達している。現在兵団の規模は相当数に達しており、兵団イコール街という図式となっている。

一方ウイグル族など少数民族から見えれば、共産党や兵団が有望な土地を取り上げて開拓した、と見るかもしれない。ある意味ではウイグル族にとっては自分の土地でも、漢族から見えれば未開の土地、という場所が多かったのかもしれない。

この博物館にその歴史がかなり多く展示されており、一般的な博物館より遥かに見ごたえがある。特に何度も起こった少数民族の反乱の歴史が漢民族の立場から語られている。また現在民主活動家として物議を醸しだしている艾未未とその父、詩人の艾青がこの地の労働改造所に送られていたことなども展示されている。

石河子がなぜ80年代の中国の街に見えるか、それはこの街が50年代の人工的に兵団によって作られ、そのままの状態を維持しているからであろう。ある意味では発展から取り残された革命の地、といった雰囲気である。

夏休みということもあり、多くの見学者が押し掛けてきており、入場制限がされていたほど。新疆観光の一つとして、石河子と新疆兵団は一般民衆にとっても欠かせない所らしい。と言っても石河子に宿泊することはなく、バスで通りがてらに立ち寄るだけ。

夜市に行って見た。これまたひどく懐かしい。まるで台湾の夜市と言った雰囲気もあり、娯楽が少ない当地では、相当の人出もある。薄暗い露店では、怪しげな物を売っていたり、親子連れがのんびりと夜景を眺めていたり。

8月17日(水)
(3) 日本人の寄付で出来たジュース

翌日は朝から石河子の招商局へ行き、当地の企業誘致状況を聞く。日系企業の進出はないとの事であったが、何故か「神内」と言う日本的な名前が飛び出す。10数年前、この地を訪れた日本人、神内良一という人が、この地に寄付をして、石河子大学との共同研究を開始。結果として当地で取れるニンジンや桃を使ったジュースが出来上がったと言う。試飲してみたが、なかなか美味しかった。

この興味深い日本人は誰なのか?帰国後ネット検索すると神内良一氏とは消費者金融「プロミス」の創業者、とある。東証一部の上場を果たした翌年1997年に、ご自身は金融から農業へシフトしたとあるから、その頃、何かのご縁でここへ来て農業関連事業に寄付を出したのだろうか。その事業が今も根付いている所が面白いし、素晴らしい。

もう一つ面白いと思ったのは、石河子大学。正直この田舎の大学の研究レベルはどんなものだろうかと思ったが、聞けば、ここは新疆ウイグル自治区でウルムチ大学と並ぶ、全国重点大学。北京大学などから教授が送り込まれ、レベルは相当に高いと言う。これは石河子と言う街が共産党にとって、いかに重要な場所かということを端的に表している。

そして今回我々の案内を買って出てくれた招商局の若者は実は山東省の出身。ウルムチ財経大学で修士を出た後、内地に帰ることをせずに、石河子市に就職した。「内地にチャンスはない。ここはいいですよ」と言い切り、既に住宅も購入、彼女も出来たとのこと。中国は広い、沿海部だけが良いのではない、ということを感じさせる彼であった。

因みに昼は女性招商局長を交えて大宴会となる。彼は飲めないお酒をがむしゃらに飲み、へべれけに酔い、それでも我々のアテンドを続け、最後に我々がバスに乗り込むと、その場にへたり込んでしまった。こんな若者、昔いたような。実に懐かしさを感じさせる漢族の街、それが石河子であった。

3.博楽
(1) 西へ西へ流れ行く

石河子を出発し、一路西へ針路を取る。今日は博楽まで350㎞。いよいよ過酷な車の旅が始まった。昼からお酒を飲んでしまったこともあり、いい気持ちでバスに乗る。天気は上々、空も青い。

片道2車線の高速道路をスイスイ走る。途中路肩に大量のトラックが停まっていた。聞けば、トラックは日中、この道を走ることが出来ないと言う。確かにトラックがいないので、走りやすい。トラックの荷台に目をやるとものすごい数のトマトが積みこまれて、動き出すのを待っていた。このトマトがラグメンの具になるかと思うと、さっき食事をしたばかりなのに、腹が減る。それ程に美味しそうに見えるトマトであった。

道の脇に時々表示が出ている。第XX兵団、この付近も多くは兵団の開拓地のようだ。石河子は大きな街であったが、多くの兵団員は、更に奥地の未開の地を開拓していったのだろうか。そしてそこには少数民族は住んでいなかったのだろうか。バスから眺める限り、何一つ分からない。

ちょうど中間ぐらいでトイレ休憩があった。運転手は他のドライバーと言葉を交わす。どうやらこの先の道路事情を聞いているようだ。こんなにきれいな道路があるのだから、情報など要らなそうに見えるが、そこは昔の伝統か。いや、博楽市はこの幹線から外れた場所にあり、情報は重要だった。

右側に列車の線路が見えたと思ったら、長い長い貨物列車がバスと並行して走っている。この列車は一体どこへ行こうとしているのだろうか。一体何を運んでいるのか。我々もこの列車も何だか、流れに任せて西へ西へ流れていくようだ。

夕方ようやく博楽市に着いた。夕陽が見事に傾いていた。街の外れの立派なホテルにチェックインした。

 



新疆北路を行く2011(6)ウルムチ 踊りの上手いウイグル人

新疆は踊る

夜はJ氏に連れられて、ウルムチの高級レストランへ。ここではウルムチの音楽や踊りが見られると言う。まだ陽が高い7時に到着、続々と観光客が集まってきて、徐々に盛り上がっていく。中国人の団体客が多い。我々は既に慣れた手つきで最初に出て来るスイカを食べながら、ビールを飲む。

ショーは意外に早く始まった。歌あり、踊りあり、楽器ありのエンターテイナーショー。結構迫力があり、面白い。子供の雑技なども披露される。途中から、皆さん踊りましょうと言うことで、フロアーで踊る。我々のテーブルでも遅れて来たN嬢とS氏夫人が大活躍。まるで西洋のようにカップルでフロアーに出ていき、見事に踊る。これは幼少期から事あるごとに踊る習慣があるウイグル族ならでは。N嬢いわく、「ウイグル人なら誰でも踊れます」、凄い。

同時にテーブルには羊から魚まで数々の料理が並んでいる。ビールの後は持ち込んだ白酒を2本開け、大宴会となっていた。まさに飲めや歌えや踊れや、でこれも凄い。飛行機が遅れて途中から登場したN所長などは、訳も分からずこの宴会に巻き込まれ、あわや倒れる寸前に。それにしても全員がしたたか酔い、踊り、実に楽しい宴会であった。新疆の底力を見た気がした。

8月15日(月)
(5) 学院長は36歳

翌朝はJ氏やS氏が所属する新疆某大学にお邪魔した。同大学は1950年に党の幹部学校として設立され、現在は数校が合併、学生数3万人という大きな大学になっている。校内に案内されると流石に広い。立派なグランドは市の競技施設並み。そして学校の北側にはだだっ広い公園があり、これも学校の敷地だと言われて驚く。

経済学院のG学院長と面談。中国の大学は学院毎に分かれており、日本でいえばちょっと違うが学院長は学部長か。いや、学院毎に独立採算性、独自性が求められる中国では、経営者と言えるのではないか。そのG氏、僅か36歳でこのポストに就いた。これはこの大学でも異例らしい。全国の優秀教師にも選ばれている。確かに話し方はしっかりしているし、中国の幹部教育を受けた人、というイメージが強い。勿論漢族である。

大学の校舎内に張り出された紙。よく見ると、漢族とウイグル族の学生が喧嘩したようで、その処分が張られていた。双方ともに退学処分だったが、それが公平な裁きであるかどうかは、部外者には全く分からないが、新疆の複雑さの一端を見る。

学内に大学を紹介する展示室があった。日本の大学にはこのような場所があっただろうか。そこには大学の歴史が書かれていたが、海外の大学で最も早く提携したのは実は日本のA大学であると、式典の写真も掲示されていた。日本は80年代、その経済的な優位性を生かして、様々な活動を行ってきた。しかし経済低迷の今、その多くが忘れ去られている。一方中国では現在経済優先社会となっているが、それでも昔のことを忘れない姿勢はある。日中の基本的な姿勢の違いがすれ違いを生む場合もあると感じる。

(6) フライトチケットネットと電話で

午後はウルムチ市の経済開発区、開発区内企業を訪問。色々と参考になる話があった。尚日系企業の姿はここにはなかった。

実はこの先、新疆北路の旅を終えると、私一人は皆さんと別れて、青海省西寧市へ行くことになっている。全省制覇まであと2つ。いまだ未踏の青海省にはこの機会に行っておこうと思う。幸い元部下の知り合いが西寧に滞在しており、面倒を見てくれることが決定。フライトを取る必要が出て来た。

元々ウルムチ→西寧は一日2本程度しかなく、便がタイトだと聞く。その為、ホテルに入っている旅行社へ行き、急ぎ押さえる。お姐さんが丁寧に調べてくれ、何とか20日の夜便を買う。この時期割引はなく、結構高い。支払いも現金決済。横には札束を握りしめた地元のオッチャン2人が真剣にフライトを探している。高度成長期の雰囲気がある。そして西寧から北京に戻るフライトを聞くと、「夜中の12時に到着する便しかない。まだ十分席はあるから、どうするか考えてから買え」と言われる。確かに北京に夜中到着はきつい。

ところが翌日ネットでこのフライトを検索すると既にすべて売り切れており、22日に北京に戻る便の席は全くなくなっていた。一瞬唖然となる。23日の午後便で東京へ戻らないと、ノービザ期間の15日を過ぎてしまい、オーバーステイとなる。これは何とか避けたい。西寧は諦めて、ウルムチから北京に戻るか。

シートリップ(携程)という旅行サイトを眺めながら、思わず電話をする。事情を説明すると「直行便は満席ですが、西安経由でどうですか、ちょうどいいのがありますよ」と言うではないか。そうか、経由便は思い付かなかった。海外クレジットカードの決済も電話で出来た。料金も西安経由には割引があり、安く上がったし、時間も夕飯頃には北京に着いていた。中国語が出来ることが前提だが、便利になった物だ。既に現金を握りしめて旅行社へ行く時代ではない。




新疆北路を行く2011(5)ウルムチ やっぱりラグメンは美味い!

8月14日(日)  (4) ウルムチ2

毛沢民

翌日は日曜日、夕方まで自由時間となる。N先生、M先生と街の探索に出た。M先生は実は歴史フェチ。タクシーで街の南にある八路軍新疆駐在事務所記念館へ向かう。ホテルからは30分ぐらい掛かった。突然道の脇にレンガ造りの独特な建物が出現。共産党の秘密基地といった雰囲気は全くないモダンな造り。

観光客でここを訪れる中国人はいないようだ。入り口のおじさんも暇そう。「写真は撮らないように」と言って中へ引っ込む。2階建ての建物に入ると意外と展示物が多い。新疆における共産党の歴史がきらびやかに書かれているが、恐らく当時は相当に大変な状態であったはずだ。

同時にここが同盟国ソ連との最前線になっており、何と初代の所長は陳雲。陳雲と言えば改革開放後、鄧小平に対峙した経済理論をもっていた人物。その後も共産党設立メンバーの一人陳潭秋が所長を務め、1942年に逮捕、翌年新疆軍閥の盛世才によって毛沢民・林基路らとともに殺されている。

毛沢民、毛沢東と一字違いのこの人物は実弟である。元々財務金融に明るかったのか、初代国家銀行総裁、経済部長などを務めていたが、1938年に新疆に派遣され、犠牲になっている。毛沢東はこの弟のことをどう思っていたのだろうか。

今の心境の情勢と当時の情勢は全く違っていたかもしれないが、漢民族である共産党がこの地に入り込み、そして制圧していく過程は1つのドラマかもしれない。毛沢民は華やかな共産党の勝利を見ることもなく、ましてや自分が毛沢東の弟として、飾られることなど想像すらしていなかっただろう。

書店の自動保管箱

道を歩いているととても雰囲気のよさそうな茶店があった。入ろうとしたが残念ながらラマダンで休業中。店の入り口からするとトルコチックなお店。どんな茶が出て来たのだろうか。

次に向かったのは新華書店。大学の先生、研究者は常に資料収集を行う。これは意外と大変な作業だと思う。ウルムチ、新疆の資料を探す。ここの新華書店もご多分に漏れず、どこに何があるかは分かり難い。しかしN先生などは初めて来たとは思えないほどの素早い行動力で、次々と関係資料を掘り出している。私が新疆の歴史に関する資料を手にすると「これは日本語版がここにあります」などと教えてくれる。凄い。取り敢えず1冊購入する。

今回驚いたのはバックを預ける保管箱。コインロッカーのようになっており、すべて自動化されている。最近北京に行っても書店に入ることは少ないが、北京や上海もそうなのだろうか。そして一番驚いたのは、取り出す際に預けた時に出て来たシートをかざすだけでロッカーが開いたこと。日本にこんなのあるかな。

また道を歩く。昨日来た大バザールを通過。その先にCDショップあり。いい民族音楽が流れて来て、N先生思わず中へ。「ウイグル音楽で一番人気があるもの」とのリクエストを出すと、CDを掛けて聞かせてくれるから有難い。周囲には物珍しそうに人々が、「こっちの方がいいぞ」などとちゃちゃを入れながら、皆で聞く。

それから民族博物館へ。ところがその場所に博物館はなかった。あったのは大きなビル。中では和田(ホータン)の玉が売られていた。ここは玉の市場かな。新疆民街と書かれており、政府がここを10年前に整備したことは分かったが、その後博物館は閉鎖し、市場になったようだ。

玉と言えば、ホータンの玉の値段はどんどん上がっており、石炭などで巨額の富を得た漢族が高値で買っていくと言う。たった一つの玉を4000万元で売り、その金で市内中心にビルを買った、などという豪勢なエピソードも飛び出す。今や博物館など儲からない、といった雰囲気が漲る。とても残念なことだが、これが現実。

バスとタクシー

先生達はもう一つの新華書店に向かう。不熱心な私はここで別れる。そして折角なので市内のバスに乗ってみる。ところが地図を忘れてしまい、停留所の名前を見ても、どのバスに乗ればよいか分からない。仕方なく適当に乗り込む。1元。

日曜日の昼間、バスは意外と混んでいた。ラマダンの時は家でジッとしているのかと思い込んでいたが、どうやら違うらしい。数駅乗ると紅山公園にやって来たので、ここが市内の中心であると思い、降りる。ところが、この公園は相当の広さの上に高さもある。ここを登るのは大変だと思い、目の前にやって来たタクシーに飛び乗る。

運転手は漢族ではないが、どの民族かは分からない。最近は景気も良いし、給与も上がっていると上機嫌で言う。「ウルムチは田舎だと思ってきただろう」とズバリ言ってのけたりもする。「最近この辺のマンションは8,000元/㎡はするよ。一番高い所は18,000元」街の発展を喜んでいる。「俺たちは民族なんかどうでもいい、平和に暮らせればそれでいいんだよ」とも言う。確かにその通りだ。

 

一人昼飯
ホテルに戻ったが、時刻はまだ2時台。何となく腹も減るが、それほど沢山食べたくもない。そこで麺を食べようとホテル内のレストランへ向かう。ところが・・「四川の担担麺ならあるが、ウイグルのラグメンはない」と言われてビックリ。仕方なく、ラグメンレストランの場所を聞き、向かう。歩いて5分、

店を覗くと沢山の人が食べていた。入り口で先ず食べる物をオーダーし、金を払う。私は迷わずナス肉ラグメンを注文。10元。ついでにシシカバブーも頼んだが、「1本なんて焼けないよ」とお姐さんに冷たく言われる。しかし後ろで順番を待っていた女性が「あたしも食べるんだから、一緒に焼こうね」と実に優しく言ってくれた。これだけも感激。カバブー1元。

昔の学生食堂のように、厨房が見える。自分のオーダーした物をその前で待つ。なかなかいい雰囲気だ。スープ麺もあり、こちらは出て来るのが早い。これも美味そうだが、熱いのだから、汗が出そうだ。10分近く待ってようやく、私の麺が出て来た。

ナスと羊肉の具と麺は皿が分かれていた。具を麺に載せ、思いっきり?かき混ぜる。ナスの香りが飛ぶ。食べなくても、既に美味い。麺は本当にしっかりしており、実に満足できるスパゲッティーである。日本では食べられないのだろうか。カバブーが遅れて到着。こちらも肉が柔らかい。

食事が終わってレストランを出ると、そこは下町の風情。ちょっと散歩。道沿いに木々が緑に映え、その下でカバブーを食べながらビールを飲む人々。昼からビアガーデン状態だ。N先生に早速知らせねば、と思う。

脇道を入ると果物を売っている。スイカにハミウリ、ブドウ、何でもある。一人ではスイカ一つでも多過ぎる。諦める。横を見ると携帯ショップがあった。そうだ、デジカメのカードリーダーを持ってくるのを忘れていた。店で聞くと、おにいさんが親切に私のカードに合うリーダーを探してくれた。価格は僅か10元。何となくその優しさに癒される。

更に歩いて行くと、靴磨きのおばさんと目が合う。そうだ、昨日砂漠に足を突っ込み、靴を汚していた。試に足を出して聞いてみると「これは革靴じゃないから、ちょっと高いよ」と言われる。いくらか聞くと「3元」との答え。磨いてもらう。磨くと言うよりクリームをつけて落とす感じか。

おばさんは河南省から出て来た出稼ぎだった。ここでの生活を聞くと「生活はどこだって同じだよ」と。でもウルムチは景気が良いそうで、商売は繁盛しているとも言う。僅か2-3元の商売だが、彼女は実に明るい。話していてもよく笑う。隣の2人も同郷らしく、話に加わり楽しく過ごした。



 

新疆北路を行く2011(4)トルファン ラマダンにさ迷い歩く

灼熱の交河城址

次に訪れたのが、トルファン市内から西に10㎞、交河城址であった。ここは2つの川の交わるところ、交通要衝の地であった。三蔵法師も訪れたと言う高昌国の隣。現存する城址は唐代以降のものだというが、見ると一面の廃墟。遮るものもまるで無し。今日はそれほど暑くはないと言われたが、それでも38度はある。何故なら夏のトルファンの昼間、38度を下回ることはないらしい。

しかもこの廃墟、説明文はどこにもない。行けども、行けども何もわからない廃墟を歩く。これは1つの修行ではないだろうか。いや、その昔三蔵法師はこのような砂漠を延々と歩いてインドへ行ったと言うことを我々に語っているのだろうか。

何事にも熱心なM先生を除き、皆かなりの疲労を覚え、出口へ向かう。まさに兵どもが夢のあと、といった感じだ。のどの渇きがすごい。この荒涼とした感じは如何にもシルクロードだが、直射日光と乾燥には耐えられない。砂漠を行くとは大変なことだ。

出口の所に博物館がある。中に入るとこの城址の由来その他が説明されており、初めて意味が分かる。我々は順番を間違えた様だ。先にここを見ておけば、あの暑さにも耐えられただろうか。いや、それはないだろう。

交河城とは我々には想像もできないし、現在見てもピンとは来ないが、陳舜臣氏によれば、「彫刻都市」なのだそうだ。交河というぐらいだから、2つの河に挟まれている。しかも20mの絶壁が城壁を作る必要性をなくしている。交河城は上から彫られた世界でも稀にみる都市なのである。上から彫られたと言えば、以前訪れたインドのエローラ石窟を思い出す。

実はトルファンには交河城址の他にもう一つ、高昌古城という場所がある。こちらの方が規模は大きいが、街は殆ど残っていない。理由として交河は日干し煉瓦を殆ど使っていないこと。農民は古い日干し煉瓦が肥料としてよいことを知っており、かなり掘り出して使ってしまったらしい。

尚高昌国は唐の時代、玄奘が立ち寄った場所。国王麴文泰は玄奘を気に入り、この国に留まるよう無理に要請。自ら給仕までしたらしい。天竺行きの使命を帯びる玄奘は4日間絶食し、対抗したという。結局1か月滞在し、国王はじめ300余人に講義をしたと言う。

当時高昌国は唐と突厥に挟まれて、苦しい立場にあった。王はこの難局打開の一つの方策として仏教の導入を進めたのかもしれない。結局麴文泰は玄奘が去って10年後には死を迎え、高昌国は唐に敗れて滅びる。唐は強国といえども、建国直後でまだ勢力が弱いと見ていたところ、それが誤りであったと言うことらしい。玄奘の「大唐西域記」には1か月も滞在したのに、高昌国のことは一言も触れられていないと言う。

交河城には高昌国滅亡後、唐の太宗により安西都護府が置かれ、唐は直接西域経営に乗り出した。玄奘はインドの帰路、この道を通らなかった。因みに後年マルコポーロも南道を通り、トルファンには立ち寄っていない。

ラマダンに彷徨う
既に午後3時、昼食場所へ向かう。J氏の教え子と言う男性が現れ、先導してくれる。先生はいいな、どこにでも教え子がいる。しかし教え子とは言っても堂々とした人。市政府に務めているらしい。

少し郊外の雰囲気のよいレストランに到着。観光客も外で待っている。中に入るとぶどう棚、その下に桟敷?があり、とてもいいムードで食事が出来そうだ。ところがどっこい、追い出される。何とラマダン中で昼間店はクローズ。期待は大きく裏切られる。

ようやく街中のレストランに入ったのは午後4時。しかし新疆時間ではまだ昼ごはん時間だった。地下へ降りていくと数組が食事中。我々のテーブルには薬缶で茶碗にお茶が配られる。冷たい物が飲みたい気分だが、それは仕方がない。ところがもう一つ薬缶が出て来た。白湯かな、と思っていると、冷たい。そして色はお茶のそれだが、何故か泡が立っている。N先生の目が輝いた。外国人待遇が得られたようだ。

腹が減っていたことはあるだろうが、ここのラグメンは本当に美味しかった。ニンジン、ピーマン、キュウリ、インゲンなどの具が程よく上に乗り、麺も細いがしっかりしていて、味わいが深い。思わず、お替り、というか日本のラーメンでいう替え玉を頼む。具は残しておいて、麺を追加する。いくらでも食べられそうな。

火焔山

そして一行は火焔山へ向かった。火焔山と言えば、西遊記が思い出される。山とは言いながら、かなり広い範囲を指すらしい。我々は一路、ベゼクリク千仏洞を目指した。山が傾斜する砂漠に見える。その空が広がる渓谷に千仏洞はあった。

この千仏洞は6世紀の高昌国の時代に作り始められ、9世紀に最盛期を迎えた。13世紀のイスラム侵攻により破壊されたが、現在いくつかの石窟が残っている。しかしその内部は19世紀末にやって来た外国探検隊に殆どをはぎ取られている。正直見学できるいくつかの石窟に入っても、どこに壁画が描かれているのか分からない。係員が下の方を指さし、足の部分だけが辛うじて見えた、と言った状態。また僅かに全景が見える壁画が薄く残っているのみ。

千仏洞の入り口にウイグル人と思われる老人が一人で楽器を弾いていた。その音色がこの風景のマッチしておりなかなか良い。顔も日焼けして如何にもこの辺りの人。音楽好きで大バザールでタンバリンを購入したN先生、老人に近づき、その音楽に合わせてリズムを取り、タンバリンを忘れたことを悔やむ。老人にチップを渡すと、何と「昴」を演奏してくれた。お客の国籍をちゃんと把握している。

外に出ると「火焔山」と書かれた石碑の横に駱駝が待機している。観光客を乗せて、斜面を登るようだ。まるで月の砂漠を想起させる景色。そして火焔山の中心に。トルファンでも最も暑い所であり、50度を超えることもしばしばとか。火焔の由来は砂岩の浸食によりできた山肌の赤とその形状。

そしてウルムチへ。帰りの道路に検問があった。以前は全員の身分証を確認するなど厳しいチェックがあったようだが、今回は運転手だけがチェックされ、後ろのトランクを開けることすらなかった。中国政府はウルムチ市の治安に問題が既に無いことを確認しているようだ。

ネット騒動2

夜、ホテルの部屋を移動した。元々の予約は今日からであったので、予約した部屋に移った。昨夜の騒動もあり、これでネットも繋がるだろうと期待していたが、何と部屋にケーブルが無いばかりか、ケーブルを繋ぐジャックすら見当たらない。またフロントに電話を掛けると、困った声で「没法子」と言う。一体どうなっているのか?

部屋に若いマネージャーがやって来て事情を説明される。そしてやって分かった。このホテルには元々僅か10部屋にしかネット設備が無いのだと。今時中国でこんなホテル、あるのだろうか??昨日の部屋に戻せと言った所で、今日は全室満員で移りようもないとのこと。何でそれを昨日言ってくれないのだ。

マネージャーも困った顔をしていた。彼が悪いんじゃないのだ。自分にそう言い聞かせて寝ようかと思った瞬間、彼が「PCを持って下に来てくれませんか」と小声で言う。何故?よく分からないが、着いて行くことにした。彼は私を1階フロントに案内し、フロントで使用していたPCからケーブルを抜き、「これを使って下さい」と差し出した。呆気にとられたが、折角なのでPCに接続し、メールをチェック。こんな時に意外と大事なメールが入っており、助かった。夜中の人気のないロビーに背を向けてフロントに向き合い座る。何だかとても滑稽だが、ちょっと感動。

部屋に戻ろうと3階でエレベーターを降りると、何故かそこはカラオケ屋。受付の男女スタッフが私を見て「なんでそんな恰好でPC持っているんだ。PCよりカラオケだろう、この時間は」と笑いだす。私は初めて自分が短パンにTシャツの寝姿であることに気が付く。確かに真夜中にPCを持ってこの格好で歩く異邦人は滑稽以外の何物でもない。




新疆北路を行く2011(3)トルファン 風力発電とカレーズ

スパゲティーをイタリア人に教えたのは
そのレストランは1階と2階に分かれており、1階は庶民的、2階は豪華な感じであった。我々は真っ直ぐ2階へ。しかし2階ではちょうど従業員のミーティングの最中。開店前に入ってしまったらしい。外国人だからだろうか。

実はこのお店、S氏の知り合いが経営者であった。その経営者はやはりウイグル人で、しかも大阪に留学していたという。帰国後大学で教えていたが、辞めて友人とレストラン経営をはじめた。経営は順調かと聞くと「ボチボチですね」と日本語で答える。実に落ち着いた雰囲気。日本の料理を参考にしたか、と聞くと、サラダにわさびを入れただけとか。このサラダ、後で食べるとなかなか美味しい。

ようやく従業員が動き始めた。先ず大皿にスイカとハミ瓜が運ばれる。このハミ瓜は日本のメロンのようで本当に美味しい。どうしてこれを日本に輸出しないのか、と食べた人は皆思うフルーツ。ハミ瓜にかぶりつく。これは美味い。スイカも大きく切られていて、甘い。取り敢えず料理の前のフルーツ。そしてなぜか主食の麺が登場。

このラグメン、という名前の麺。麺にこしがあり、かつ上にニンジン、トマト、などの具を炒めた物を載せて、かき混ぜてから食べる。実に美味しい。まるでスパゲティーのようだと言うと、J氏が高らかに言う。「スパゲティーをイタリア人に教えたのはウイグル人である」、なに、それは初耳だが、確かにこの麺と具はスパゲティーである。説得力あるなあ。

更にJ氏は続ける。「ピザもイタリア人に教えた!」、えー、それは・・。しかし確かにピザの生地はある意味ではウイグル人がいつも食べるナンである。具もスパゲティーと同じような物か。それにチーズは山羊のチーズを使えば・・、ピザもできるね。これは驚きである。

そしてシシカバブ‐が登場した。このカバブー、羊の肉が実に柔らかい。塩味も程よく聞いている。うーん、この店は実にウマい。東京に出店欲しい、と伝えたがオーナーは、「日本でのビジネスは難しい。材料もない。ウルムチで十分」と断られた。

そして周囲を見てみるとビックリ。いつの間にか日が落ち、お客さんが集まっていた。皆いい服を着て、社交場のように集まっている。女性が多い。S氏によれば、「男性はラマダン中、各人の家に集まり、毎日宴会をしている。女性たちはレストランにやって来て、食べている」うーん、ラマダンのイメージは崩れる。面白い。

外へ出るとまだ完全には暗くなっていなかった。突然大きな音がした。道路を見ると車がぶつかっていた。そのぶつかり方が普通ではない。道のど真ん中で、前の車が急に左に曲がり、後ろの車がその横腹に突っ込んでいる。どうしてこうなるのか。両方の運転手が言い合いをしていたが、何故か警察は来ない。その内話が着いたのか、両車は何事もなかったように走り去った。

ネット騒動
長い一日が終わり、ホテルへ。荷物をM先生の部屋に預けており、それを引き取ってようやく自分に部屋に落ち着く。そして唯一の懸念、インターネット接続を試みる。が、普通ホテルの机の上にあるネットケーブルが出ていない。引出しにも入っていない。どうなっているんだ。ある程度以上のホテルでネットが繋がらないはずはない。

仕方なく、フロントに電話。しかし、「ネットケーブルが無いのなら繋がらないわね」とすげなく電話を切られそうになる。そんな馬鹿な、何とかしてと訴えると、「でもケーブルの予備はない」と言い放つ。訳が分からず食い下がると「じゃあー誰か見に行くから」と如何にも困ったといった感じで答えが来る。

そしてやって来たのはトランシーバーを持った警備のおばさん。私の訴えを聞いても、「なければ仕方がないわね」と帰ろうとする。そんな、何とかしてくれ、と再度叫ぶと「そんなに困っているなら探してきてあげる」と言って出て行った。

一体どうなっているのだろうか。ネットケーブルの予備が無いとは。お客の中にはケーブルを持ち去る人もいるだろう。その予備ぐらいは当然備えていなければいけない。顧客サービスの基本がなっていない。

5分ほどして警備のおばさんが戻ってきた。手にはやけに短いケーブルを持っている。繋いで見てくれというと「あたしは何にも分からない」と答える。じゃあーこのケーブルはどうしたんだ。「予備はないから、オフィスで使っていたケーブルを引き抜いてきてあげた」と言うではないか。これはトンデモナイことだが、私にとっては実に有難いことだ。

その短いケーブルを電話線ジャックに繋ぐと確かに接続できた。但し線が短すぎて机の上にPCを置くことは出来ず、荷物置きの上にPCを備えて何とかメールチェックした。それでもおばさんの行為には懐かしい何かを感じ、無性に感動していた。

8月13日(土)
(3) トルファン
時差の関係から日の出は遅いと思っていたが、北京時間午前7時過ぎには既に明るくなっていた。しかしホテルの朝食は8時から、今日の出発も10時からと基本的には新疆時間感覚で動く。ウルムチは日中の日差しは強いが、朝夕はだいぶ涼しく、気持ちが良い。

10時にJ氏、S氏そしてN嬢が登場した。N嬢は今年の3月まで横浜の大学の大学院に留学していた才媛。正直服装からしても眼鏡一つとってもウイグル人には見えない。彼女自身も「日本ではよく日本人に間違えられた」というぐらい。ウルムチでは目立つ存在か。7月から新疆財経大学に正式の採用になったとか。立派な先生である。

今日は元々列車で夜到着予定が昨日着いてしまったエクストラデー。協議の結果、トルファン日帰り旅行となった。車も急遽手配。観光シーズンで難航したが、何とかJ氏が確保してくれた。そのバンに乗り込んだのだが、S氏は「まだ朝ごはん食べてない」と車を街中に停める。ついでに水も確保して出発。

トルファンの風力発電
トルファンは中国でもっとも標高が低い場所。何と海抜‐154m。ウルムチからだと一気に1000m近く駆け降りることになる。片道2車線の道を車は軽快に飛ばす。天気も良い。絶好のドライブだ。

途中付近一面に巨大な風車のようなものが見えてきた。思わず車が停まる。何だこれは。白い羽がグルグル回っている。風力発電の設備がどうだろうか、数百台設置されている。確かにこの辺りは盆地で風が強い。風力には適しているかもしれないが、これだけの規模とは。流石中国。

現在中国全土には3万4千本の風車があると言う。この5年間で設備容量は20倍に伸び、アメリカを抜いて世界一になっている。しかし中国国内では内モンゴルが約3割のシェアを持ち、新疆は上位5位にも入っていない。恐らくは新疆内の電力は十分足りており、もし内地に電力を送ろうとすれば、送電線の問題があるのだろう。

思い出すのはお知り合いの経済作家黒木亮氏が「排出権商人」(講談社)執筆の為、単身ウルムチに乗り込んだ話。彼が見た風景もこれだったのだとようやく合点がいく。因みにこの本には私も色々と協力している。

観光客が見学するための博物館も建設中だ。これは中国が国家政策として推し進めているプロジェクト。実際に目の前で見ると壮大だ。もしこれで本当に電力が賄えるのであれば原発は不要なのだろうか・・。組み合わせが重要か。

中国人観光客が工事現場に足を踏み入れ、写真を撮っている。私も撮ろうと思い、踏み込むと何とそこは砂漠の砂。一瞬にして足が砂だらけになり、靴に砂が入り込む。これには参った。砂を落とそうにもそう簡単ではない。

カレーズ
180㎞、約2時間のドライブでトルファンに入る。先ず訪れたのが、カレーズ。カレーズとは地下水路のこと。イランでは「カナート」と呼ばれるらしい。トルファン名物のぶどう棚の下を通り、博物館へ。

博物館で一通り説明を見る。そしてそのまま地下へ。カレーズは新疆全体で1700本以上存在するが、トルファンだけで400本を超える。2000年の歴史を持ち、今でも一部農村では飲料、灌漑用水などとして使用されている。

この地下水路、2000年も前にどうやって作ったのだろうか。説明を読むと、勾配を利用していかなる動力も使わず、地下水を地上に組み上げていると言う。「トルファンの母なる川」と評されているが、それは本当にそうであろう。この水が農作物を育て、人々の生命を維持し、オアシスを繋いできたのである。

しかしなぜ地上ではなく地下だったのか。一つは極度の乾燥地帯であるため、地上では砂に水分を吸い取られること、もう一つは地表の塩分を吸った水は農業に適さなかったかららしい。この地区では富がたまれば水主になる、と言われていた。それ程水は重要だったのだ。水枯れはイコール滅亡である。

地下へ降りると、狭い空間があり、柵が施された僅かな合間に水が流れている。我々が狭いと感じるのであるから、この工事をした人々は大変な苦労をしただろう。治水とは命懸けであり、それほどまでに重要である。

上に上がると明るい陽射しに包まれて目がくらむ。外では民族衣装を着た女性がブドウジュースを販売。飲みたかったが・・。ウイグル人にとっては観光地でジュースなど飲みたくないだろうな。駐車場脇に水が流れている。見るときれいな水だ。思わず降りて手を洗う。少し冷たく、そして心が洗われるような気がした。

 

新疆北路を行く2011(2)ウルムチ 楼蘭美女と地下商店街

楼蘭美女は出張中
M先生が博物館に行きたい、ということで、市内中心にある自治区博物館へ。北京時間4時までに入場しないと閉館と聞き、急いで行く。現在中国の博物館はどこも無料。これはとても嬉しいサービスであるが、中には参観者が多過ぎて困る所もある。

ここは閉館間際でもあり比較的空いてはいたが、それでも団体観光客が多数いた。我々は勝手に参観しようと思っていたが、J氏はどこかへ消え、何かを探している。10分ぐらい待つと、何と日本語の若い女性ガイドさんが登場。13の少数民族について詳しく解説を始める。

私が注目したのは中国東北地方から清朝時代に移住させられたシボー(錫伯)族。実は中国では既に満州語は死語となっており、満州語が読み書きできる人々はかなり限られている。満州族はとっくに漢族化してしまったと言うこと。清朝時代の資料もある程度は漢文で書かれているようだが、勿論満州語で書かれている物もあり、現在この資料が読める唯一の民族として、中央政府もシボー族を北京に呼んで、解読に当たらせていると聞いたことがある。何だかとても不思議な話だが、中国の少数民族を考える場合、示唆に富むエピソードかもしれない。

そしてこの博物館のメインは「楼蘭美女」。約3800年前に埋葬された女性のミイラであるが、その保存状態の良さなどは驚くべきものがある。1980年にタクラマカン砂漠の東、楼蘭鉄板河遺跡で発掘され、世界を驚かせた。NHK特集シルクロードでも放映され、鮮烈な印象がある。

ガイド嬢が「楼蘭美女は出張中です」と残念そうに、そしてちょっとユーモアを持って宣言する。中国国内の他の博物館に貸し出されている。しかしこの博物館には他に2つのミイラがある。おばあさんと男性である。楼蘭美女は美女と言うのに、隣はおばあさん、彼女が言うには「楼蘭美女は身分が高い女性、このおばあさんは普通の女性」だそうだ。死んでも身分を問われるとは何となく悲しいが、歴史的な遺産としては大事なこと。男性のミイラは張さんと言うらしい。これはこれで面白い。

このガイド嬢、聞いてみると今年大連外国語学院日本語学科を卒業して、ウルムチにやって来た。小声で「新疆のことはまだよく分かりません」と言うのが初々しい。今日は日本人のお客さんも多く、我々が5組目とか。最後はかなり疲れていたが、元気に手を振って見送ってくれた。それにしても人材不足の新疆、内地(新疆では中国他省をこう呼ぶ)から沢山の若者がやって来ている。

ウルムチの日系地下商店街
ウルムチの市内中心に日本人が作った地下商店街がある、という話は以前より聞いていた。辰野名品広場、新疆人なら誰でも知っている。我々も連れて行ってもらった。1998年に建築面積約3,300平方メートルでオープン、現在では当時の約3倍の11,000平方メートルにまで拡張された。

なぜこんな所に日本企業が?それは大阪の辰野と言う会社の辰野専務による決断だったらしい。ウイグル人留学生の誘いで訪れたウルムチ、そこに可能性を感じたとあるが、それは当時としては凄い決断だろう。この感覚は見事的中し、政情不安などがありながらも、今では辰野の地下街はウルムチの名物。

実際行って見ると、地下商店街という感じではなく、先端ファッションを扱う日本のブティック街。DHCなど日本メーカーも店舗を構えていた。ウイグル人によれば、個々の価格はかなり高いということらしい。

09年ウルムチ暴動があった年、辰野氏は亡くなった。暴動を見ていたらどんな思いだったろうか。名誉市民の称号が与えられている。

堂々とした両替
辰野の地下街に入る所に、中国銀行があった。そこの前にはウイグル人のおじさん達がたむろ。一瞬にして25年前の上海が蘇る。当時外国人はバンドにある中国銀行に口座を開き、送金があるとそこへ手続きに行く。外にはウイグル人が待っており、必ず「チェンジマネー」と声を掛けられる。闇両替はレートが良いとのことだったが、当然違法であり、時々外国人留学生が捕まって、新聞に載ったりしていた。

ウルムチのおじさん達は何と正にその闇両替屋であった。がどうみても闇ではない。実に堂々としており、人民元の札束を手に握りしめ、お客が来ると銀行内に一緒に入り、お客の外貨を確認している。そして何と店内に備えられた現金数え機に自分の人民元の現金を入れて見せ、偽札でないことを証明していた。これは一体何なんだ。銀行も黙認している両替である。

実は北京ではこれほど大胆ではないが、非合法の両替は存在している。そして銀行側も顧客サービスの一環として彼らを紹介していると言われている。中国における外貨両替は一人年間5万米ドルまで。どうしてもその枠をはみ出す人は非合法の手段を使わざるを得ない。それは違法と言うより庶民の知恵のようなものだが、ウルムチのそれはちょっとした知恵の域は遥かに超えている。中国経済の規模が拡大する中、外貨両替枠の拡大があってよいのでは、と思うのだがどうだろうか。

大バザール
車で大バザールに向かう。市内の南、モスクが見える。するとその横の建物に何とカルフールのマークが地味に溶け込んでいた。そういえば、確か以前イスラム社会とカルフールで悶着が起きていた気がする。そうするとこれはカルフールが出来るだけの配慮をした結果なのだろう。中にはケンタッキーもあったのだが、いずれも自らのブランドカラーは消している。商売はお客様次第ということか。

確かに大バザールと言うぐらいだから規模は大きい。何でもイスタンブールに次ぐ規模とか。私のイメージのバザールは屋外だが、ここは屋内。大きな建物が3つほどあり、店舗は中にある。干しブドウが目に入る。名産品である。ジュータンがあり、玉など宝飾品がある。内地から来た観光客が、土産物を買い込んでいる。ここでは基本的に北京語で事が進んでおり、観光客向けの市場である。中東からも多くのバイヤーが来ていると聞いたが、その姿は見られない。

N先生が楽器の前で止まる。ウイグルの民族楽器、タンバリンのような楽器を買う。J氏は折角ウイグルの楽器を買うのだったら、ウイグル人から買って欲しいと言ったそうだ。そのあたりにこの地域の難しさが顔を出す。売り子は少数民族が多い。ベールをすっぽり被っている女性が携帯電話をいじっている姿は何となく微笑ましい。

夕方も6時半を過ぎたが、日の高さから見ても午後の早い時間帯にしか見えない。新疆には新疆時間と言う時差がある。北京とは2時間。まだ4時半と言うことだ。しかもさっき3時前に昼食を取ったばかりだが、レストランに向かう。





新疆北路を行く2011(1)ウルムチ ラマダンの食事はフルーツから

《新疆散歩》 2011年8月12-20日

中国の新疆と言えば、シルクロード。ちょうど私が大学に入る頃、NHKが「シルクロード」という番組を放映し、改革開放政策と相俟って、大ヒットを飛ばした。あの喜多郎の雄大な音楽と石坂浩二のナレーションは未だに耳に残っている。中国ブームのはしりだ。

どうしても新疆に行きたい、いやシルクロードを辿ってみたい。その希望は何度も打ち砕かれてきた。1987年上海留学の最後に計画した西安‐カシュガル横断旅行は、仕事でダメになった。2000年、北京在住中には、内モンゴルにはよく行ったが、それより西に行く機会は訪れなかった。

2007年に再度北京に住んでからは、兎に角毎年夏になると計画した。しかしその度に、航空機爆破未遂、ウルムチ暴動などが発生して、旅行は中止になった。辛うじて西安に初めて行き、蘭州にも行った。こんなメジャーな都市にこれまで一度も行かなかったのかと、友人には笑われた。しかし個人的には「新疆は老後の楽しみ」と割り切り始めていた。

今年に入り、お世話になっているA大学のN先生より、「夏の辺境調査は新疆だ」と聞き、俄然行く気になった。幸い会社に行かなくなり、時間は自由になった。この辺境調査、単に辺境に行くだけではない。各地の政府、大学、工業団地、企業などを訪問し、話を聞く。これまで広西壮族自治区、ウランバートル、延辺朝鮮族自治州の調査に同行しており、その有意義な様子は理解している。イメージと違った新疆が見られるかもしれない。

北京からウルムチまで33時間を列車で行く、というN先生に最初から同行することにした。しかし夏の新疆は旅行のハイシーズン。結局列車の切符は取れずに飛行機で行くことに。ちょっと残念でもあり、ホッとした面もある。やはり体力の衰えを自覚し始めている。

 2011年8月12日(金)
1. ウルムチ
(1) ウルムチ行きにテロ警戒の気配なし

北京空港は夏休みのせいか、乗客がいつもより多い。荷物検査も混んでいた。以前成都行きに乗った時、何故か特別検査ゲートを指示されたことがあった。そこでは靴も脱ぎ、ベルトも外して検査する念の入れよう。理由を尋ねたが誰一人答えなかった。後で分かったことはその飛行機が成都経由でチベットのラサ行きであったこと。経由便でもそれほどの警戒があるのであるから、ウルムチ直行便などは当然特別検査対象と思っていたが、結局すんなり通過してしまう。どうなっているのか。

因みにこの時は全ての荷物を機内持ち込みにしたが、何も引っ掛からなかった。ところが最後に北京から東京に帰ろうとした国際線の荷物検査でシャンプーを取り上げられた。係官は「容器が100ml以上の場合、中身が100ml以下でも没収の対象」と説明。何となく納得が行かずにいると係官は対象法令を指さす。そこには「容積が100ml以上・・」とある。容積とは中身ではないのか?しかもこれまで一度も引っ掛からなかったことを主張してみたが、「荷物を預けろ」と言うばかり。これを見ても中国の検査が結構いい加減なことが分かる。テロ対策大丈夫か。

N先生ともう一人M先生と空港内で合流した。M先生も80年代北京に留学したつわもので、毎年中国に学生を連れてやって来ており、今回も北京師範大学に学生を送り込んでこのツアーに参加している。更にはこのツアーの後、モスクワに行く予定もあり、日本に戻るには何と9月下旬という凄いスケジュールの持ち主だ。このように熱心な先生がいるんだなあ、と妙に感心。

3人でコーヒーを飲んで話し込んでいると、出発30分前になる。最近国内線は招集も早く、どんどんドアを閉めて出発する傾向にある。慌ててゲートへ行くと案の定殆どの乗客は既に乗り込み、我々は完全に出遅れていた。客室内は満員、自分の席に行くと、隣の中国人が「友人と席を替わって欲しい」と言う。満員の為一緒の席が取れなかったようだ。替わってあげたが、私の荷物を納める所がなく、苦労する。夏休みで子供の姿も多く、本当に観光シーズンを感じる。日本で言われているテロや暴動を想起させる新疆のイメージは全くない。

国内線で4時間のフライトは初めて。エアーチャイナのサービスにははじめから期待してはいないが、機内食は相変わらず不味い。隣のおじさんはイスラム教徒(回教徒か)らしく、ベジ料理を頼んだが、「予約の時に言ってくれなければ困る」などとCAから言われ、しょぼんとしていた。そうは言っても結局はベジが出て来たところを見ると、やはりこの路線でのニーズは高いらしい。

(2) ラマダン中の食事はフルーツから
午後2時にウルムチ空港に到着。非常に近代的な空港で驚く。何とターミナルが3つあるとか。既に規模は北京並みか。空港内には経済開発区の宣伝や、中欧博覧会の開催を知らせる案内が出ている。ウルムチは政治や民族ではなく、経済都市をアピールしている。外に出ると日差しが強い。

空港には新疆財経大学の副教授J氏とS氏が迎えに来てくれていた。J氏はA大学で博士号を取得、S氏は京大で取得している秀才である。私はS氏が運転する車に乗り込む。空港から市内まで20㎞だが、道は空いており、どんどん進む。「空港に来るときは渋滞があり、かなり時間が掛かった」と言われるがピンとこない。

ウルムチ市の北側、空港から20分ほどでホテルの到着。ここは元々イリのウルムチ駐在員事務所。メインの建物の後ろには新しい建物も建っている。従前の計画では列車で33時間掛けて来る予定であったから、到着は明日。急遽本日のホテルを予約したようだが、メインビルは満室で今日のみ別館に泊まる。

行って見ると部屋はきれいだが、掃除が出来ておらず、荷物だけ置いて昼食へ向かう。既に午後2時半を回っており、どこでご飯を食べるのだろうか、と思っているとホテル横のレストランに。案の定誰もお客はいない。従業員も手持無沙汰。入り口には「安全検査」と書かれた紙がテーブルの上にあったが、誰もバックを開けようとはしない。

このレストランはメニューが壁に写真入りで張り出されており、外地から来た人間にも分かり易い。N先生は兎に角ビール。新疆ビールと書かれた冷蔵庫があったが、それほど冷えてはいない。私は「チャイ」と書かれたお茶を所望。しかし出て来たのは所謂羊のバターを入れたバター茶。S氏いわく「ここは漢族のレストランで美味しくない。本物はまた別の機会に」と。

驚いた事には先ず食事の前に出て来たのがスイカ。私は大好きだし、のども乾いていたので問題ないが、スイカをつまみにビールは大変。何故スイカかと聞くと、「ラマダン中本来日中食事は勿論、水すら飲んではいけない。夜食事の前に先ずは水分を取り、かつ糖分を補給して、胃腸の活動を促すため」という。まさに知恵である。