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《昔の旅1986年‐激闘中国大陸編》南京ー金陵飯店とバスの故障

〈4回目の旅-1986年12月南京〉
―金陵飯店とバスの故障

1. 南京
(1)南京まで
上海も冬になり肌寒くなった12月、良いホテルに泊まり湯船にゆっくり浸かりたいという日本的な理由で南京に行くことになった。何しろ南京には金陵飯店がある。当時としてはレベルの高いホテルと聞いていたので、早速電話すると250元で予約が取れた。ホテルの予約を電話でできるとはその当時非常に稀なことであり、かなり期待できるホテルであることが分かった。

今回は同室のAさんと2人で旅。と思ったら、同窓で1年先輩のMさんと華東師範で日本語の先生の女性2人も同行することになった。彼らは南京大学の知り合いに会いに行くところだった。

以前無錫に行くとき乗った列車に乗り、今回は終点の南京まで約5時間の旅である。前回は10月で気候の良い時であったから、非常に爽やかな秋の風景であったが、今回は畑も一面刈り取られ何も無い非常に寂しい冬景色だった。

(2)南京の夜
駅に着くと直ぐに金陵飯店へ。部屋はまあきれいな方であったが、湯船はそれ程大きくなかった。それでもホテルのチェックインで何時間も交渉することを考えれば満足、満足。

それから4人で南京大学へ行き、留学生と会う。南京大学は金陵飯店の直ぐ北にあり、町の中心にあるこじんまりした大学。金融機関から派遣された留学生も何人かいたが、今回は学生で留学している人々と会う。大学の先輩、後輩もいた。かれらは月に1度は上海に来ると言う。我々にとっては物の無い上海でも、南京から見ると憧れの町であるらしい。学生らしく書籍を購入しに来る人も居る。我々が実は恵まれていることがこの時分かる。留学生宿舎も我が復旦大学の方が整っている。お湯のシャワーが24時間出る、暖房(暖気)も24時間出ているのは全国の大学でも復旦だけ。南京大学ではそんな贅沢は無いと言う。

夜は近所のレストランで食事を取る。何時も旅行中はホテルでばかり食事をしている我々にとって、地元レストランは結構新鮮。かなり薄暗い中、料理も美味しかった気がする。ちょっと塩辛かったけれど。

ホテルに戻り今回の目的である風呂に入る。今でも海外生活では湯船に湯をたっぷり張ってゆっくりと浸かりたい願望はある。ましてやこの当時、上海の宿舎では泥の混ざったような茶色いシャワーを浴びていたのである。その切実さは計り知れない。湯船に体を沈めれば、何ともいえない心地であった。

(3)南京観光
2日目。南京観光。先ずは中山陵へ。孫文の遺体が安置されている場所で革命の聖地と言った感じ。台湾旅行で行った中正記念堂の蒋介石像は南京の中山陵の方を向いていると教えられた。何時か大陸に戻るという願望の表れだ。

階段がかなり沢山あり、上るのに難儀したのを覚えている。その横を日本の高校生が修学旅行で訪れており、ぞろぞろと同じ服(学生服)を着て詰まらなそうに歩いているのが印象的だった。私は常々日本の学生にこそこの物の無い生活を体験させたいと考えていたが、見た感じとても耐えられそうに無い。日本の将来が思いやられた。

雨花台烈士陵園にも行った。紀元前に越王が城を築いたと言うから歴史はかなり古い。しかし雨花台といえば、何と言っても国民党の処刑場として使われ、多くの人間が殺された場所である。今は静かな公園になっている。

午後南京長江大橋に行く。1968年に完成された中国最大の橋。当初はソ連の技術を導入したが、中ソの仲が悪くなり最後は自力で完成させたと誇らしげな解説が見える。確かに長江は大きい、広い。河の向こう側は煙ってよく見えない。日本にはこんなに広い川幅は見ることが出来ないと思う。しかも橋は2段になっており、下は鉄道が通っている。

橋の近くに南京虐殺記念館があったと思う。今地図を見ると大橋からは少し離れているが。ここは文字通り1937年の南京大虐殺関連の資料が展示されている。一歩中に踏み込むと言い知れぬ重圧がある。先ず映像室に案内され、ビデオを見るのだが、これが虐殺シーンの連続で見ている最中後ろから切り付けられるような気分になる。ビデオを見終わって外に出ると流石に誰も日本語を話そうとしない。無言で展示物に目をやる。殺された30万人の内訳などが詳細に記入されており、日本などの『虐殺は無かった、でっち上げ。』などの意見に真っ向から反対している。

帰ろうとするとアメリカ人が英語で『日本人は虐殺をどう考えているのか?』と質問してきた。これまで事実かどうかといった話はしたことがあったが、アメリカ人に英語で話すほどの回答を持ち合わせていない。こういう時に情けないなと思う。同時に日本の歴史教育とは何かと考えさせられてしまう。さっきの高校生なら『知らない、何それ。』などと平気で答えてしまうだろう。

夜は金陵飯店で中華を食う。旨かった。久しぶりに旨い中華を食った。夜遅くロビーに下りるとコーヒーショップがまだやっている。何と24時間営業。中国で24時間営業の場所を初めて見た。別にお腹はすいていなかったが思わず入ってしまう。ここで生まれて初めて『海南チキンライス』を食べる。鳥好きの私はこの後十数年海南チキンと付き合うことになる。今でも最も好きな料理である。コーヒーも飲んで大満足。

2.揚州へ
3日目。今日は南京を離れ、揚州に行くことにした。揚州まではバスで3時間。前日バスターミナルで日本製のバスであることを確認して予約した。南京大学の人々が口を揃えてバスが良く故障するので、気を付けろと言っていたからだ。

揚州と言えば、揚州チャーハン。勿論鑑真和上の大明寺もあるが、先ずは食い気である。意気揚々とバスに乗り込み、チャーハンのことを考えていた。きっとAさんも同じだったろう。バスは日本製。問題無し。

バスは快調に1時間ほど走っていたが、その辺りから雲行きが怪しくなる。まさかと思っていたが、日本製のバスのご利益も無く、何と故障。20分ぐらい停車し運転手は懸命に修理を試みていたようだが、最後にスパナをポンと放り投げる。それが合図なのか乗客が皆降りはじめ、何と思い思いにヒッチハイクを始める。そして手際よくバスを捕まえどんどん乗り込んで行く。我々2人の日本人は呆然と見つめるだけ。あっという間に取り残された。

やむを得ず運転手のところに行き、外国人の我々を何とかしろと迫る。必死の形相が功を奏したか、運転手がヒッチハイクを始めた。ところがなかなか来ない。そして何と反対側のバスを捕まえて何か話し込む。これに乗れという。我々ももうどうでも良くなっていたので、南京に引き返すそのバスの乗ってしまう。

乗っても席が無い。当時交通機関は何処でも満員なのだ。運転手が手招きし、運転台の後ろの空間に座れと言う。色々話しかけてくるが、この地域も訛りが強い。何を言っているか良く分からない。しかし最後に分かったことには、どうやら最初のバスの運転手が『この日本人は非常に急いでおり、南京駅から汽車に乗らなければならない』と嘘をついて乗せてくれていたことだ。

まさか嘘だとも言えず、頷いていると何と運転手は路線バスにもかかわらず、いの一番に南京駅の前にバスを付けてくれた。これには驚いた。本来は感謝すべきであるが、当方には南京駅に行く理由は無かったから、キチンと挨拶もせず降りてしまった。悪いことをしたと今でも反省している。

駅に着いてしまったからには、何とか今日の上海行きの切符をゲットしたいところ。しかし中国はそんなに甘くない。係員は全く取り合わない。やる気の無い姿勢でウンでもなければスンでもない。私はもうこんな状態には慣れていたので、粘り強く交渉しようと思っていた。ところが、普段温厚なAさんが突然キレた。あれは正にキレたのだ。最初は北京語で何故売らないんだと言っていたが、途中からは日本語で捲くし立てた。こんなAさんを初めて見たので、私の方が慌ててしまった。翌日の切符を?ぎ取るとAさんを外へ連れ出した。普段大人しい人が怒ると本当に怖いとその時知った。

兎に角泊まるところが無いので、金陵飯店に戻って事情を話したところ、快くもう1泊させてくれた。しかしもう観光もしてしまったので、行くところが無い。部屋でゆっくりしたのを覚えている。

4日目。上海に戻る。結局揚州チャーハンは次回の機会を待つことになった。

《昔の旅1986年‐激闘中国大陸編》紹興・寧波-魯迅会議と修学旅行

〈3回目の旅-1986年11月紹興、寧波〉
―魯迅会議と修学旅行

1. 紹興
ある日H君が『紹興行きません?』と私に聞いた。上海に来て2ヶ月、正直退屈していた。既に授業には飽きてしまっており、夕方来る家庭教師の学生相手に、テレビを見て語彙を増やしたりしていた。

紹興と言えば、紹興酒と魯迅。どちらも中国を代表するもの、是非行って見ようと思った。何故か紹興行きの列車は夜の出発である。夜9時上海発の寧波行きに乗る。前回の無錫行きと違い、非常に暗い印象。当然幹線である上海―南京線より落ちる車両を使っている。先が思いやられる。ただ今回は中国通のH君が付いている。特に問題は無かろうと高をくくっていた。

紹興は紀元前500年頃には既に越の都であった実に古い街である。越といえば臥薪嘗胆で有名な越王勾践がおり、古代は華やかな街であったろう。しかし私の紹興のイメージは、魯迅の『故郷』という作品に出てくるあまり明るくない街なのである。

紹興に着いたのは夜中の3時過ぎである。この時間ではホテルも探せない。11月にしては暖かかったので、町をふらふらする。町には運河が張り巡らされており、暗い中で仄かに紹興酒の香がする。実に不思議な感覚だ。まるで異次元に迷い込んだみたい。全てが幻想的。ところが少しずつ夜が明けてくるとこの幻想が現実に変わる。朝6時に幾つかのホテルを訪ねるが、何処も一杯といわれる。初めは中国に良くある『部屋があっても泊めない』社会主義的対応だと思っていた。ところが今回は事情が違った。『全国魯迅会議』。魯迅研究者が一堂に集まって会議をするらしい。紹興はそれ程大きな町ではない。本当に部屋がないかもしれない。

8時頃には諦めて、朝食を食う。粥とまん頭。これでも上海の宿舎に比べれば遥かにマシ。その後近くに居た人力車を捕まえて町を散策。清代の詩人で女性革命家秋謹の故居を見た後、今回の元凶、魯迅博物館に。横には『孔乙巳』に出てくる紹興酒を売る店があった。朝9時、何と沢山の人が朝から紹興酒を買いに来ていた。中には入れ物に事欠いて哺乳瓶に紹興酒を入れていたおじいさんもいた。何というところだ。きっと赤ん坊の頃から紹興酒を飲んでいるに違いない。我々も朝靄の中で嗅いだ香が忘れられずに、ついに人力車のおじさんと3人で店の汚い椅子に座り飲み始めた。とても旨かった。日本で飲んでいたビンに入ったものなど問題外だ。樽から直接椀に入れる。椀は綺麗とは言えないが、それまでもが時代を感じさせた。何杯か飲んでしたたかに酔った。当然だ。昨夜あまり寝ていないのだから。

何とそのまま人力車に潜り込み寝てしまった。昼近くに起き上がったが、もうこの町に居ようとは思わなかった。人力車で駅へ送ってもらい、寧波行きの切符を探した。幸い午後の切符を手に入れた。これは幸先がよい。これで今日はゆっくり寝られる・・はずだった。

2. 寧波
列車の中でも殆ど寝ていたと思う。駅に着くと這い出すように列車を降りる。駅前は閑散としていた。地球の歩き方、これが私の旅の唯一の道具だった、を見ると泊まれそうなホテルは1つしかない。駅に近い華僑飯店だ。当時中国では外国人が泊まれるホテルはかなり限られていた。ドミトリーはあるにはあるがバックパッカー用と言った感じで、上海以外で気分のよい生活をしようとする我々にとっては無用の宿であった。駅の外国人窓口で上海行きの切符を買う。ところが何度聞いても3日先しかない。これは大変なことになった。もしここで泊まれなければ今度こそ野宿だ。

ホテルのロビーに入るとき何故か緊張した。いやな予感。案の定、カウンターのお姐さんは『部屋はない』と素っ気無かった。しかし我々はここで引き下がれない。日本人で、留学生で、その上昨夜の紹興の出来事があって、などと切々と語る。それでも先方は動じない。1時間ほど経過してロビーにへたり込む。絶望的状況だった。お姐さんは仕方ないと言った感じで『部屋が無いのは本当。あなたの同胞が全て予約したのよ。嘘だと思ったら表に出てみれば。』と言う。表に出ると何と入り口のところに大きな横断幕で『歓迎 ××女子高校様』と書いているではないか?『えっ?修学旅行?何で?何でこんな所まで来るの?』その頃日本の高校では中国への修学旅行がブームになりつつあった。事実翌年にはあの高知学芸高校の列車事故が上海近郊で起こる。

ロビーに戻ると『ほらね』と言った顔でお姐さんが見る。もう動く気力がなくなっていた。本当にへたり込んだ。ロビーで寝そうな勢いだったに違いない。マネージャーらしき人が来て『どうしても泊まりたいなら、従業員宿舎に泊めてやる』と言う。もう何でもよかった。45元、確か45元取られた。部屋に窓は無かったが、予想外に清潔だった。満足した。直ぐに横になって夜まで休んだ。

夕食はホテルの食堂に行った。どうもホテルの周りで清潔に食事が出来そうなところは無かった。今では信じられないがかなりの田舎と言った印象である。食堂の席の1つに何故か日本の醤油が置かれているのが目に留まる。その席に着こうとするとここは指定席だと言う。何と寧波に駐在している専門商社の駐在員が毎日ここで食事をするのだと言う。そうこうしている内に本人がやってきたので、思わず声をかける。ここに駐在する苦労話を聞く。彼はここ寧波唯一の日本人駐在員。出張が無い限り365日、ここに泊まりそしてこのレストランで食事をする。コックにカツどんのような日本料理を自ら教えて作らせるなど何とか生活を充実させようと努力していた。テーブルの上の醤油やソースもそのようにして出来たエセ日本食を食べる為のものであった。

通算3日目、やる事も無く、郊外の観光を計画。ロビーでタクシーのチャーターを頼むが車が無いと言う。何というところだ。仕方なく、1日中寧波市内を歩く。といっても殆ど見るところもなく、港付近でぼっーとしたりするだけ。港といっても少し大きな川に小型の船が停泊しており、朝地引網を行ったと思われる網が放置されていて、小魚が引っかかっていたりする。日本で言えばかなり地方の寂しい港町になすことも無く、無為に時を送るといった風情。

寧波郊外には例えば蒋介石の故居があったり、日本で曹洞宗を起こした道元が学んだ天童寺があったりするのだが、とても歩いて行ける距離ではない。バスも不便であると言われては、成すすべが無かった。今寧波に行く人がいれば、今回の話は全く異次元の話であろう。私はその後一度も寧波を訪れていないが、聞くところに寄れば現在はかなりの発展を見せており、浙江省の中でも豊かな地域であるらしい。上海―寧波間は高速道路で僅か4時間で結ばれている。海外から進出する企業も多く、港も整備されているという。

4日目午後漸く車が手配出来、阿育王寺に行く。これだけ待って何故この寺に行ったのかは残念ながら全く記憶が無い。また折角行ったのに寺の記憶もあまり無い。一体どうしたことだろう?黄色の山門を潜り、広い境内を歩いた。282年建立の古刹であるが、何があったのかはとうとう思い出せない。兎に角毎回3食をホテルのレストランで食い、何もせず過ごした。ホテルの部屋は修学旅行生が1晩で去り、2日目からは普通の部屋となったが、かえって最初の従業員の部屋が懐かしかった。これがこの旅の収穫。

5日目の夜、寧波を後にする。また夜の列車で上海に着いたのは夜中の3時。今回はずっと暗い印象のまま終わった。最後に宿舎に戻った時、当然ながら門が閉まっており、管理人のおじさんを叩き起こしたのは申し訳なかった。しかし今思い返してみれば、この頃が心身ともに一番きつかったかもしれない。季節は暗く寂しい冬に向っていた。あのセピア色の80年代の風景が蘇る。毎日日本に戻りたいと考えていた私は遣唐使や留学僧侶と実は同じ体験をしていたのかもしれない。

 

《昔の旅1986年‐激闘中国大陸編》-無錫旅情と口げんか

 

〈2回目の旅-1986年10月無錫〉 
―無錫旅情と口げんか

無錫と言えば、『無錫旅情』。尾形大作が既にこの歌を歌っていたと思う。北京旅行で自信を付けた私は、直ぐにも次の旅行に行きたかった。それは留学生生活がとてもつまらなかったのと上海を離れたい思いが強かったからだ。上海、今ではいいイメージも強いこの町は、この頃何も良い事がないように思えた。上海人は顔ではニコニコしているが、お金のことしか考えていない。食べるものもない。授業も北京の北京語に比べれば、これが北京語?といった上海訛りの標準語。そんな風に考えていた。

10月中旬、同室のAさん、H銀行のCさんともう一人の4人で無錫に行った。もう一人はTのIさん?何故この時無錫に行ったかは覚えていない。もし理由があるとすれば歌ぐらい?列車の切符は和平飯店?の中国国際旅行社で予約。軟座を確保。当時列車の料金は外国人が中国人の1.8倍、且つ外国人は外貨兌換券(FEC)という人民元とは異なる通貨を使っており、この兌換券をもし闇で両替すれば1.5倍になったことから実質2倍以上の料金を取られていた。但し留学生証があれば中国人料金になった。でも軟座を取るには兌換券は必要。どちらにしても日本円にすれば何百円の話であるが。

無錫までは列車で僅か2時間半。軟座は4人掛けの柔らか目の椅子席である。席に付くと車掌さん?が早速薬缶にお湯を入れて持ってくる。茶を飲むコップは例の蓋付きがテーブルに置かれている。なかなかよいサービスだ。窓からの眺めもなかなか良い。日本の田舎と同じような畑や田んぼが続く。江南の春ならぬ秋である。春は菜の花が一面に咲き乱れ見事なものであるが、秋は稲刈りが終わった感じで物悲しい。

同じ列車にはT銀行の上海所長がスーツ姿で乗っていた。南京に出張のようだ。何となく後ろめたい思いになったが、当時駐在員は我々よりずっと良い生活をしていたので、自費で旅行するのに文句があるかなどとも思っていた。(勿論この所長には何の恨みもない)

無錫に到着すると駅前はやはりごった返していた。と言っても上海ほどではない。先ずは駅で帰りの切符を手配。外国人専用窓口があり、2日後の軟座が簡単に手に入った。これで今回の旅行は2泊3日と決まった。順調だ。次はホテル。駅から少し歩いた無錫大飯店というそこそこ綺麗なホテルを見つけて宿泊交渉。左程時間も掛からず、チェックインできた。

当日は小雨が降っていたが、ホテルからまた歩き出す。大分歩くと漸く湖が見えてきた。太湖だ。小雨に煙っているが、大きい。中国で4番目に大きいという。湖畔には大きなホテルが幾つか見え、こちらの方が旅情を誘う感じがして少し残念な気がした。日本人には極めて好まれる風景ではある。散歩を少ししたが、雨で引き返した。

夕飯はホテルで無錫料理を食べた。何と言っても無錫排骨が旨い。味付けが甘めで,日本人向き。他の料理もなかなかいけており、上海の留学生食堂で食うより余程良い。

2日目はタクシーをチャーターし、宜興へ行く。宜興、現在の私なら何としても行きたい町。紫砂の茶器で有名な町であるが、当時は全く興味がなく、目も呉れなかったのは残念。あの時買い求めていれば今頃素晴らしいコレクションになっていたのに??その時は洞窟があり、小さな船で洞窟探検が出来るという事で行ってみた。確かにちょっとした観光地であったが、印象はあまり強くない。

帰りにチャーターした車が他の車と接触したことの方が印象に強い。我が運転手は敢然と車外に飛び出し、ものすごい勢いで口げんかが始まった。中国では口角泡を飛ばすといった口論が町の彼方此方で見られる。ただその時は自分達も当事者となった為、事態の推移を固唾を飲んで見守った。周りに野次馬が殺到した。他に楽しみがないのか、何処でも野次馬が多い。かなり言い合った後、とうとう我々の所に来て、証人として証言してくれと言う。当時の北京語力ではとても証言など出来るわけがない。第一実際にどちらが悪いのか見ていたわけではない。一瞬の出来事だったから。

我々が証言出来なかったことが祟ってか、運転手は捨て台詞を残して車に戻ると乱暴に発進させた。きっと彼は会社に戻り、社長に色々と言い訳をしないといけないのだろう。私は彼に悪いことをした気がしてならなかったが、どうしようもなかった。中国では口論で相手を言い負かす言語力が求められることを痛感した。但しこれはネイティブではない我々には実際は不可能なことに思えるが。

3日目は帰る前に恵山泥人形工場に行った。泥人形は無錫の特産。お土産に1セット買った。劇の役者の顔を模った物が多かった。無錫は元々錫の産地であったが、早くに掘り尽くしたという。それで錫がない無い、無錫となった。その後泥人形が出来たのかもしれない。

帰りの列車も何事もなく上海に着いた。今回の旅ほど何のハプニングも起こらなかったのも珍しい。

《昔の旅1986年‐激闘中国大陸編》最初の旅-北京

〈最初の旅-1986年9‐10月北京〉

1. 留学
1985年私はあまり深い考えも無く、銀行に就職した。相変わらず北京語も出来ず、算数も不得手の私が今の会社を選んだ大きな理由は、『北京語を使う必要が無い』と考えたからだ。当時巷では中国ブーム。就職時、多くの企業から中国語を勉強していたと言う理由だけで誘いを受けた。はっきり言えば全く勉強しなかった私は就職の為とはいえ、『中国語が出来ます』などと言う嘘をつくことは思いもよらないことであった。私が選んだ銀行は信託銀行。どうみても国内銀行の響きであり、中国語を使うビジネスなど無いと思っていた。企業訪問ではろくに調べもせず、お金持ちの資金を預かるつもりで入社したのだ。

その考えが間違いだったことは直ぐに分かった。入社後配属された場所は国際部、当時の役員はトイレで会えば、『中国語勉強しているか?』と聞いてくる始末。これではおしっこも出なくなってしまう。そして入社1年目の3月、当時の部長から『中国留学の話がある。詳しいことは人事部で聞いて。』と言われて、人事に赴けば『来週までに健康診断して来て。』。私の意思などお構いなく、留学が決まってしまった。後に私を採用した人事の人に聞くと、中国語が出来ないと言っていたので、機会を与えたまでとの事。随分と配慮されていたようだ(笑)。

さあ、それからが大変だ。普通の留学生は中国語の学校に国内で通い、そして留学するのだが、私の場合行き成り留学。何とかお願いして、週2回夜先生に来てもらって、他の生徒と3人で勉強を開始したのが、5月。9月の留学までに何とか基礎の基礎をマスターした。ところでそのとき習った先生は、上海人の莫邦富氏。その後ジャーナリストとして、中国の社会問題を追いかけており、蛇頭、一人っ子などを題材とした多数の著書を残している。この時点ではそんな人になるとは思っても見なかったが、彼は留学当初からこのような野望を抱いていたのだろうか?

2. 上海へ
今回の留学は、全国銀行協会のアレンジで中国銀行の受け入れである。会社は事務所のある北京に留学するよう勧めたが、中国銀行からの回答は上海の復旦大学であった。当時聞いていた話では、上海は中国で一番発達した都市ということであったので、ラッキーという感じを持った。これは後で大いに間違いであったことが分かるのだが。

1986年9月6日、17年経った今でもこの日は忘れない。中国民航(今の中国国際航空)で成田を出発した銀行員留学生は21名。私は最年少であった。その後の上海生活の記述は別の機会に譲ることとする。

3. 北京
(1)北京へ
上海での生活にも漸く慣れた頃、国慶節の休みがやってきた。と言っても中国の大学は実質10月から始まるので、未だ殆ど授業もないような有様ではあったが。9月下旬我々の部屋の向かいのH君から『北京に一緒に行きませんか?』との誘いがあった。H君は関西の大学から私費で留学して1年以上経過しており、北京語も堪能で上海の事情にも通じているので、我々の貴重な情報源となっていた。私と同室のAさん,それにもう1人の4人で行くことが決まった。正直言ってこの時期中国の怖さ(?)をいやと言うほど味わっていたので、H君がいなければ決して出掛けはしなかったろう。また行き先が北京であり、北京事務所には挨拶しようと思っていたので、決心がついた。

アレンジは全てH君任せ。当日9月29日の夕方、初めて上海駅に行った。今なら虹橋空港から一っ飛びであるが、当時『国内線は落ちる』(ある人の話では年間10機以上が墜落していたが、外国人が乗っていない限り発表されることは無いとのことで、我々に実態は良く分かっていない)とよく言われており、飛行機は生命の危険が伴うと本気で考えていたので、列車の旅となった。この切符を買うのがまた大変でH君のコネを使って何とか軟臥(A寝台)を抑えてもらった。(当時汽車の切符を買うのは大変であり、特に幹線の軟臥は厳しい。更に国慶節とくればその難しさは想像を絶する。)

(2)初めての列車
当時の上海は何から何まで大変だった。大学の宿舎から駅に行くのも満員のバスなら幾つか乗り換え、タクシーは前日町まで行って予約しておく必要があった。旅行は一大イベントだ。上海駅は目立たない建物で、バスで通り過ぎてしまっても不思議は無いほどみすぼらしかった。イメージは戦後直後の映画に出てくる上野駅?人は山ほど居り、改札口に着くのも一苦労だった。駅構内も暗く、どの列車が何処へ行くかもよく分からない状態であった。その中で我々の乗車する北京―上海直行便は唯一光を放っているように見えた。この列車北京―上海間を17時間ノンストップで結ぶ最新式であり、恐らく当時中国が誇る列車であったはずだ。

中国の列車には軟臥、硬臥、軟座、硬座の4種類があり、今回は長距離であるので、軟臥に乗る。軟臥は4人一部屋でコンパートメント。左右に2段ベットが2つあり、昼間は下のベットに2人ずつ座って過ごす。更に進行方向左側は通路になっており、引っ張ると出てきて座れるシートから外を眺めることも出来る。我々は4人で1部屋を占領し、快適な旅を過ごした。

初めは兎に角物珍しさもあり、動き回ったり、外を眺めていた。上海郊外は田んぼと畑が連なっており、日本の田舎のようだった。その内夜になり暗くなると全く電灯が無いところが続き、本当に真っ暗だったのを良く覚えている。
列車内では皆がお茶を飲んでいる。お茶でなければ白湯かもしれない。車掌は頃合を見計らって薬缶に湯を入れて持ってくる。車両と車両の間にも給湯器がある。

夕食は列車に付いている食堂車へ行くのだが、これが非常に混雑していて、席に座るのも一苦労。食事も美味しいとは言えない代物だった。更に驚いたのは、我々が食べている横におじさんやおばさんが鋭い目つきでピタリと張り付いており、立ち上がる素振りでも見せれば、忽ち取って代わられる勢いであった。中国人の逞しさをここでも見た。中国人にとって食事は何よりも大切なものなのだ。この時文化大革命終了から丁度10年まだまだその意識は人々から去っていなかったのであろうか?

夕食後、部屋に戻ると通路に外国人が居た。我々以外は中国人と思っていたので、話しかけた。たどたどしい英語で聞いたところ、ハンガリーの外交官夫妻のようであった。日本ではなかなか会えない人々なので幾つか質問した気がするが忘れてしまった。この列車の軟臥に乗っている中国人は基本的に共産党幹部、軍関係者また何かのコネのある人だけと思われた。硬臥以下の喧騒は凄まじいものがあったが、ここは別世界のように静か。ただ基本的に車掌以外と言葉を交わした記憶は無い。未だ相手から見ても外国人は未知の存在であったのか?

夜中に一度ガタンといって列車が止まった。未だ到着には早いと思い、外を見ると山東省の済南駅であった。ここは交通の要所であるらしく、郵便などの荷物の積み下ろしだけが行われていたようだ。下りて見たかったが、何時出発してしまうかが心配で窓から眺めただけだった。

(3)北京事務所
翌朝北京駅に到着した。ここも今とは違い、暗くて怖い雑踏だった。但し上海駅と違い建物は立派であった。1959年の建国10周年を記念して建てられただけあり、首都の玄関口の風格はあった。H君の誘導で何とか駅を抜け、バスに乗ったと思う。左程遠くないところに予約したホテルはあった。このホテルを予約することも当時の中国では難しく、今回はH君の知り合いの先生を通じて予約してもらった。場所は天壇公園の西側、天橋飯店の近く。因みに1999年に北京駐在となった折探してみたが良く分からなかった。尚現在近くに天橋茶芸館という食事をしながら話芸や京劇の一節を楽しむ劇場があるが、ここの食事は頂けない。

ホテルはあまり大きくないが、部屋は何とスイートルームだった。ここに4人は寝れるということだ。まあ兎に角国慶節の休み(当時は30日午後と10月1-3日)期間に部屋を確保できることは当時大変なことなので、皆喜んで泊まった。恐らく部屋代は一泊一部屋200元位ではなかったか?

午後は皆と別れて北京事務所を訪問した。民族飯店にあった。当時は日系の事務所も沢山所在しており、立派なものだった。事務所といってもホテルの部屋を使用しているので、部屋番号を頼りに探す。漸く辿り着き、ノックするとドアが開き、そこに濡れた髪を拭きながら佇む美人が居た。これには驚いた。部屋を間違えたと思った途端、その後ろから『いらっしゃい』と日本語で言われた。当時の次席駐在員S氏だ。美人は事務所の秘書劉さんだった。事情を聞くと中国では風呂は各職場で入るものだそうで、彼女は国慶節休みで帰宅する前にシャワーを使っていたようだ。ホテルの部屋だから、風呂場はあるわけだ。

帰りは連休前で殆ど車の走っていない中、何とかタクシーを捕まえてホテルに戻った。運転手の北京語は全く分からなかった。兎に角早い。舌の巻き方も尋常ではない。これが老北京人の北京語だ。酔った勢いで分からないながらも会話を試みた。ホテルに着くと、運転手は親切にも中まで着いてきた。おかしいなと思って聞いてみたところ、私はお金を払っていなかったのだ。後日この話を誰かにしたら、もしその運転手がホテルで騒いだら大変なことになっていたと言われて、背筋が寒くなった。

(4)北京観光
10月1日は天安門広場、故宮博物館に行った。兎に角広かった。故宮の中は歩いて抜けるだけで、1時間半も掛かった。何を見たかは覚えていない。天安門広場では可愛い子供の写真を取ろうとして親に文句を言われた。中国では無断で子供の頭を撫でたり、写真を撮ったりしてはいけないことをこの時知った。

午後頤和園へ行った。園の中を闇雲に歩き回ったが、中身には印象がない。ただ天気が良くて気持ちがよかった。故宮より更に広かった。天壇公園にも行ったが、観光地にあまり印象がないのは、やはりこの旅の目的が観光ではなく、日本食を食べるためであったからかもしれない。ところで北京は10月のこの時期だけが素晴らしい。『北京秋天』と言われている。上海の9月は東京と同じで残暑が厳しく、更に宿舎の裏がどぶ川であることから特に臭い。それに比べてこの爽やかさ。北京の第一印象が良いのは天気の為だ。後年2年間北京に住んでみて気候の悪さは身に沁みたことから、この時のタイミングの良さを思わずにはいられない。

北京は広い。上海と違って簡単に西から東に行けない。当時はタクシーなど簡単に捕まえられず、基本的にバスに乗った。バスは2つをチューブで繋ぎ合わせたトロリーバスで、車掌の言葉も分かり易い。因みに上海は上海語で話していた気がする。上海ほど込んでいなかったのは休みの為か?

そういえば、この旅で全く印象が無いのが北京の地下鉄。先日亡くなった宮脇俊三氏の『中国火車旅行』を読むと1985年には北京に地下鉄があったとなっている。しかし全く乗った記憶も無い。やはりタクシーが乗れる喜びにタクシーばかり捜してしまったのだろうか?(1999年に駐在した時も子供を地下鉄に乗せるために、タクシーで駅に行くほど不便ではあったが。)

昼も夜も食事は日本食レストランへ行った。建国飯店の中鉢、北京飯店の五人百姓。感激した。上海が中国1の都市と言われるのは、あくまでも中国人を対象とした話だ。80年代日本人にとってよい都市は北京と広州ではなかったか?カツどんを食べて泣きたくなってしまった。誰も北京ダックを食べようとは言わなかった。(最終的には全聚徳に入ってみたが。)

10月2日、北京旅行のメインイベント、万里の長城へ行った。前日やっとタクシーをアレンジ。200元(これは当時の私の先生の月給の1.5倍)。車はシトルエン、但しフロントガラスは割れており、なかなかスリリング。街中を抜けると畑が広がる。シトルエンは休みの日に働かされたのが不満なのか、用事があるのか驚異的なスピードで飛ばしていく。160kmは出ていた。途中皆怖くて何とかスピードを落とさせようとしたが、2時間その調子であった為、到着したときはグッタリした。長城にどうやって登ったのは全く記憶がない。私は高所恐怖症のため、いやな思い出は忘れようとして忘れた可能性もある。

但し登った後の印象は強烈であった。何処までも続くレンガの壁、所々に見える物見櫓、そして雄大な景色。全てに圧倒されてしまったのであった。その時頭の中に浮かんでいたのは只1つ。『どうして日本はこんな物を作った国と戦争してしまったのだろう。天皇及び日本の内閣・軍幹部がこの風景を見ていたら、戦争の決断が出来ただろうか?百聞は一見に如かず、とは正にこの事だ。私は今この風景を確認した。今後は絶対この国と戦争をしてはいけない。』現在でも現場を知らずに新聞情報等を基に議論している人が多い。特に中国情報は政治的な要因もあり、歪められているケースが多々見受けられる。この時から私の営業スタイルも現場主義になった。

帰りもハイスピードで市内に戻る。運転手は我々の不満を余所にチップなどを要求している。働くのが好きでない北京人を印象付ける出来事であった。後に北京の合弁会社に勤務した際、この時のことを何度となく思い出した。

(5)北京のゴルフ
10月3日、昨日ホテルに戻るとS氏より電話があり、ゴルフに行かないかとの誘いがあった。私は生まれて2度しかコースに出たことがなく、面白いとも思えなかったが、何しろ『クラブハウスには日本式の風呂がある。夜は日本飯屋で寿司を食わせる。』と言われては、行かないわけには行かない。

ゴルフ場は昨日の帰りに寄った明の十三陵の傍にあった。出来たばかりのようで木は殆ど生えておらず、白杭がやけに目立つコースだった。現在は木も育ち素晴らしいコースになっているが。日本の経営で、クラブハウスでカレーが食えた。

但し夜は素晴らしかった。寿司をたらふく食べた。何もかも忘れた。感謝している。

(6)最後に
10月4日、愈々上海に戻る日が来た。正直戻りたくなかった。最後の昼は新橋飯店でラーメンを食った。若干温かったが、美味しく食べた。食べ終わると向こうから歩いてくる人が見えた。近づいてきたその人は大学の同級生ではないか?A君、確か私と同じで中国語が不得手、中国語と関係ない職場を探して、故郷の九州へ戻ったと聞いていた。『こんなところで何してるんだ?』同時に顔を見合わせた。彼は九州の優良衛生陶器メーカーに入社したが、折からの中国ホテルブームに巻き込まれ、中国で便器を売り歩くことになっていた。たった一人で入社1年目から中国でやっていると言う。私はよほど恵まれていると思い、これまで愚痴をこぼして来たことを恥じた。しかし中国語から逃げた2人が北京で再開とは。彼によれば実はもう一人、中国語がいやで九州に戻ったT君も福岡の銀行に入り、入社1年目で北京に留学し、既に帰国したとのこと。やはり運命とはそんなものかと感慨深かった。

新橋飯店の横にドイツ風ベーカリーがあった。当時中国ではパンが食べられることは貴重だった。このパン屋の中に入って圧倒された。パン屋に圧倒されたのは後にも先にもこのときだけ。ジャムパン、クリームパン、チョコレートパンがあった。夢中で買った。上海では物があったらその場で買えるだけ買うという習慣が既に身についていた。トイレットペーパーを両手一杯に抱えて満員のバスに乗ったこともある。この時およそ50個のパンを買った。列車の夕飯もパンを食べていた。翌日上海の留学生宿舎に戻り、日本人に1つづつあげた。皆最敬礼して受け取った。1個日本円で5円程度のものを『このご恩は忘れません。』などと言って貰う日本人は既に日本には存在しない。

17時間の列車の旅というと、途轍もなく長い感じがするが、寝てしまえば1晩。ましてやノンストップで人の乗り降りがない、この旅は最も楽なもので初回としてはいい旅だったと言えよう。