ある日の台北日記2018その3(3)猫空&石門 鉄観音茶の歴史を追う

11月3日(土)
猫空へ

台湾の鉄観音茶の歴史を調べるために、これまで何度か木柵、猫空へは行っている。だが、本当の台湾鉄観音茶の歴史というのはどうもしっくりとは来ていない。前回知り合いの黄さんに相談すると、『それなら何度でも違うところに行って聞いて見るべきではないか』と言われたので、お願いして、黄さんの知り合いの茶農家に連れて行ってもらった。

 

MRT動物園駅で待ち合わせて、黄さんの車で上に上がる。私は高所恐怖症であり、ロープウエーなどに乗るのは好まない。車が着いた場所は、先日訪ねた張乃妙紀念館のすぐ近くであった。やはりこの辺が木柵鉄観音茶の発祥地だからだろうか。中では林さんが待っていてくれた。

 

この地に来て5代目だという林さんだが、元々は野菜などを作っており、茶は副業だったという。しかも1970年代に林さんの父が鉄観音茶を作り始めるまで、その茶は包種茶だったようだ。80年代には猫空の観光地化が始まる。それと共に鉄観音の名声も上がっていき、90年代に最盛期を迎えた。

 

だが2000年以降は観光の方に力が入り、茶の生産は減少傾向だという。木柵から茶畑が減っているおり、同時に摘み手の老齢化が拍車をかけている。茶葉は坪林など他の茶産地から調達しているケースも多い。品評会の評価方式も変わり、伝統的な鉄観音より軽発酵、軽焙煎の物が賞を取るようになり、本来の鉄観音茶は失われつつある。

 

黄さんはこの茶農家に毎年、仲間を募り、自分たちの好みのテイストの鉄観音茶を特別注文して作ってもらっている。本当に飲みたい鉄観音茶はこのようにしなければ、手に入らないというのが現状だ。作り手も、『原料の茶葉も少ない中、確実に売れなければ手間をかけて作ることはない』というのが本音だろう。

 

この日、猫空周辺はどんより雲で覆われていた。土曜日なのに何となく寂しい雰囲気が漂う。話の内容が明るいものではなかったからだろうか。とにかく分かって来たことは、『台湾において鉄観音茶がメジャーな商品になったことは歴史上一度もないし、恐らく今後もないだろう』ということだ。ある意味で、歴史があると思い込んでモヤモヤするより、歴史は殆どない、と考える方が非常にスッキリする。本当の歴史とはそんなものではないだろうか。

 

11月4日(日)
再び石門へ

木柵の翌日、葉さん夫妻に連れて行ってもらい、もう一度石門を訪ねた。葉さん夫妻は早朝、マラソン大会で10㎞走って帰ったばかりだというから、申し訳ない限りだ。台湾も今はマラソンブーム、毎週のようにどこかで大会が開かれている。健康ブームともいえるか。

 

途中、淡水の近くで、一人の若者をピックアップ。MRT駅からかなりの坂を上ったところに住宅街があり、ちょっと驚く。台湾のバブル期、この辺もかなり開発されていったようだ。そう考えると以前訪ねた新店などはもっと前に茶畑は消え、住宅街になっていたのだな、これが台北という街の歴史なのだ、と思い至る。

 

石門の茶農家を訪ねる前に、三芝の街中にある、老地方という名前の食堂に向かう。昼過ぎだが、店の外まで人が溢れ、混みあっていた。入口で豪快に小籠包が蒸され、肉圓が作られ、大根などが煮込まれている。確かに美味そうだ。結局席を確保するまでに30分以上かかってしまう。小さな街にこれほどの人気店があるとはビックリした。客の多くが家族連れ、地元の人々だろう。安くて、ウマい、は共通語だ。

 

石門の茶廠に向かう。草里製茶廠に着き、3月に訪ねた85歳の謝さんに会う。この地の石門鉄観音製造は1980年頃始まった。その時の販売責任者はこの謝さんだった。彼によれば、茶業改良場の指導の下、硬枝紅心という、この地に植えられていた品種で鉄観音を作ったという。そして台湾各地に赴き、販売活動を展開したと言い、顧客ニーズに応えていち早くティーバッグ製造機械を導入したりしている。これらの努力により石門鉄観音の名前は知られるようになった。

 

だがそのセールス活動の資金はどこからねん出されたのか、という疑問があった。実は途中で原子力発電所の脇を通った。確かに台湾にも原発はあり、その一つがこの辺にあることは知ってはいた。そして彼の話を聞いているうちに、原発と石門茶の関連に思い至った。1980年代に、石門鉄観音茶を売りだしたのは、勿論それまでの包種茶や紅茶の需要がなくなったからだろうが、同時に鉄観音売り出しの資金は恐らくは街は入った補償金から出ていたのではないか、それだと合点がいく。

 

この付近は1920年代、台湾茶業の中心の一つであり、この地域一面、茶畑だったらしい。特に輸出用の包種茶、そしてその後の紅茶が有名であった。謝さんは話の半分以上を台湾語で話すので、葉さんの通訳が必要になり、肝心な話をうまく引き出して聞くことは難しかった。

 

ただ祖父の謝泉はこの地の有名人であり、もう一人許里と並んで台湾茶業界にその名を残している。その謝泉は、政府の巡回教師に任命され、台湾北部各地を回り、製茶技術を教えている。政府は1920年代に推奨していたのは包種茶だった。そしてこの家には謝泉が巡回教師として回った地名、そして生徒名が資料として残されているが、その中に台湾包種茶を発明したと言われている南港の魏静時の名前があることに首を傾げてしまう。この点についても謝さんはヒントになるような話を全く聞いていないようで、謎は深まっていく。

 

帰りがけに少し茶畑を見に行ったが、本当に小さかった。その周囲を車で巡ってもらっても、往時の面影を発見することは全くできなかった。車が迷路に入ってしまったように、石門の茶の歴史も話が横道に逸れていく。

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