みちのく一人旅2022(7)盛岡の偉人たち

まずは腹が減ったので、盛岡駅でアナゴ天そばを食べたが、あまり美味しくはなかった。なぜだろうか。荷物を引いて駅前の道を渡ろうとしたが、横断歩道は一つもなく、地下道を通らないと渡れない。何という不便さだろう。その後町の方に向かった時も、この不便さは付きまとい、街歩きを楽しむのに大いに困る。時々車社会の地方都市にみられる現象だろうか。

宿はとてもきれいで愛想も良い。観光用地図を貰ったが、岩手全域の観光用であり、慌てて駅の観光案内所へ駆け込んだところ、親切に歴史的な場所を教えてくれ、地図をくれた。何とも有難い。しかも駅前には新渡戸稲造の胸像が置かれており、製作者は何と台湾の許文龍と書かれていて驚いた。あの日本統治時代に台湾に貢献した日本人を顕彰るため作られた像の1つだった。

地図を持って街を歩く。夕顔瀬橋から見る岩手山は雄大できれいだった。そこから旧盛岡農林学校へ向かう。今の岩手大学だ。ここは宮沢賢治ゆかりの地で、ミュージアムもあったが既に薄暗い時間となっており、残念ながら閉まっている。次に金田一京介生誕の地に行ってみると、そこには薬局があり、漢方薬を扱っているらしい。この横に旧藩校作人館があった。

帰りに啄木新婚の家の前を通りかかったが、実に太い木があった。尚啄木の実家は盛岡ではなく、先ほど電車で通った渋民という地だった。賢治も花巻出身。それでも盛岡は啄木と賢治で溢れている。何だか腹が減り、駅の中にあったお店でハンバーグを食べた。久しぶりに食べると、ハンバーグとは美味いものだと感じる。

5月23日(月)盛岡散歩

今日は旅の最終日。午後東京へ戻るので、それまで盛岡の町を歩いてみる。商店街のアーケードを抜けて行くと、盛岡城跡に出る。その先に岩手銀行旧本店の洋風建築が見えた。近くには啄木賢治青春館という不思議な建物があり、中で彼らの足跡を細かく知ることができる。

盛岡城跡は公園になっており、水と自然が美しい。啄木歌碑、新渡戸稲造、宮沢賢治碑も建てられている。近くには賢治の下宿先などもあった。そこから目指すは新渡戸稲造生誕地。思いがけず立派な場所に、立派な像が置かれている。私は台湾と新渡戸の関連について興味があるが、日本ではお札になって少し認知度は上がったものの、依然それほど知られていない。が、さすがに地元では、色々なところに名前が出てきて嬉しい。

南昌荘というお屋敷を外から見学し、米内光政、原敬の墓所へ行ってみる。一昨年菅義偉が総理となり、久々の東北出身と言われたが、それまでの4人は全て岩手出身、原敬(第19代)、斎藤実(第30代)、米内光政(第37代)、鈴木善幸(第70代)というのが面白い。何だか昨今の野球(メジャーリーグも)を彷彿とさせる。その米内と原の墓所、墓自体にはそれほど派手さはないのだが、観光地並みの、思いのほか大きな看板が珍しい。

歩いていると腹も減ったので、ランチをやっている和食店にふらっと入るとお客で満員だった。ランチはカレーしか残っていないと言われ、牛すじカレーを食す。これがなかなかいいお味だったが、一緒に和菓子が出てきたのにはちょっと驚く。

盛岡八幡宮の境内に行くと、何と明治天皇の立像があった。これは意外と珍しいのではと思ったが、調べてみると全国にいくつもあるようだ。境内の別の場所には米内の立像もあるが、こちらの方が立派かもしれない。近くには米内の居住地跡もある。天満宮に行くと大工事中だったが、啄木望郷の碑は避けられて行くことができた。浅田次郎の『壬生義士伝』の主人公も盛岡の人だったと知る。

最後に金田一京助の墓に詣でて、駅に向かった。盛岡は思ったより歴史的であり、様々な人が登場して面白かった。芸がないと思いつつ、新幹線で大宮へ向かった。ただ折角なので25年前を思い出して、はやぶさではなく、各停のやまびこで各駅を眺めながら帰った。

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