滋賀中心の関西茶旅2022(3)木地師について学ぶ

食後、蛭谷にある木地師資料館へ行く。管理をしている方に開けて頂き、説明も受ける。これにより木地師とはどんな人々かについての知識が初めて入ってくる。轆轤とはどんなものか、実物を見て触ることもできた。ここに展示されているもの、能面など今は実物だが、今後は複製展示に切り替わるらしい。木地師と茶については特に何も出てこなかった。木地師が朝日町に移住したかについても不明だった。氏子狩り帳でも、石川と富山は空白になっている。

白洲正子に『かくれ里』という文章がある。その中に『木地師の村』という表題で、50年以上前にこの地域を訪ねた様子が書かれている。蛭谷から君が畑まで、当時は歩いて1時間ほどかかったらしい。正子は能面に興味があり、その取材が主であったようだが、『木地師に轆轤を教えたのは秦氏(渡来人)』の可能性を示唆しているのは興味深い。

それから惟喬親王御陵へ行く。立派な惟喬親王像がある。親王は文徳天皇の第一皇子だったが、第四皇子が藤原氏のバックアップで天皇となり(武門の棟梁清和源氏の祖、清和天皇)、その影響もあり、出家して隠棲した。その隠棲先の一つとしてここ蛭谷及び君が畑の地があり、惟喬親王が木地師の祖と呼ばれていることは先ほど勉強した。

そこから君が畑に行く。惟喬親王を祭る大皇器地祖神社がある。その横にあるお寺には、やはり惟喬親王の御陵がある。そして木地師発祥の地との説明も見える。どうやら蛭谷と君が畑は、惟喬親王と木地師に関して共に伝承があるようで、ちょっとびっくりした。元茶工場が川の横にあったのも意外だった。ここにドリンクの自販機があった。Nさんは喜んで、ドリンクを買う。私もつられて買う。都会から来た彼にとって、コンビニはおろか自販機さえほとんどないこの場所はちょっと辛いのかなとも思う。

本日の訪問は終了し、お宿へ向かった。雰囲気のある古民家、部屋には囲炉裏がある。ゆったりと寛ぎながら、美味しいご飯を頂く。こちらでもイワナを養殖しており、イワナ中心。特に目の前で焼かれた魚は何とも美味。息子さんがイタリアンで修行していたとかで、洋風の料理も登場し、満足。またこの地域の様々なお話も聞けて勉強にもなる。食後、ゆったり風呂に入り、疲れたので早々に休む。

4月6日(水)蛭谷と君が畑

翌朝は暖かい日差しが差し込み早起き。夜は少し寒いぐらいだったが、陽が出れば違う。そして朝ご飯もまた温かい。旅館の朝食というより、田舎風のいい感じ。ご飯が沢山あり、ついお替りしてしまう。温かいお茶を飲むと気分はなぜか高揚する。部屋から外を見ると、以前茶畑だったと思われる土地から茶樹が抜かれ、草が生えている。

今朝の仕事は、何と給油。一番近いガソリンスタンドを聞くと何と『三重県側』と言われ、一瞬愕然となる。ところが『車で15分』と言われ、また驚く。ここは三重にそんなに近いのか、それなら是非行ってみたいと出掛ける。少し行くとトンネルがあり、そこを抜けるともう三重県だった。昔はトンネルが無く、山越えして大変な道のりを茶摘み女性たちが来たという。

1つ目のスタンドは開いていなかったが、2つ目でガソリンをゲット出来てホッとした。帰りに茶畑を見つけて少し立ち寄る。『だいあん茶』と書かれた、大安町のちょっと不思議な茶畑。こんなに広い茶畑があるとはさすが三重県。そして蛭谷の茶も三重(伊勢)との繋がりを考える必要がありそうだ。

急いで政所のY家に行く。今日は木地師研究の専門家、T先生がわざわざこちらに寄って頂き、木地師の歴史をご教示頂くことになっていた。古民家のY家に上がり込み、早々講義を聞く。T先生もこの付近、既に廃村になった村の出身だった。若い時に村を出て、今は愛知に住んでいるという。松下先生などとも繋がりがあり、『お茶は素人』と言いながら、実は大変詳しい方だった。

木地師の歴史は思った以上に複雑であり、また全国に散ったルートも簡単には分からない。朝日町蛭谷へ木地師が行ったことはほぼ間違いないが、そのルートは単純ではなく、茶がその過程で持ち込まれたかどうかも不明らしい。更に政所茶の歴史などについても、柳田国男の書いたものを鵜呑みにはできないといい、木地師の末裔が茶栽培を行ったかどうかにも疑問を呈していた。

T先生のお話はどんどん広がり、木地師より御師ではないかとか、日野商人の関りとか、私が普段気にしているところをどんどん突いてきて、面白くて仕方がない。時間はあっと言う間に過ぎてしまい、続きは次回となってしまった。今回事前に提出していた質問にも丁寧な回答を頂き、大変参考になったが、しかし私が今調べている核心にはなかなか近づけずにいた。

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