トルコの茶畑を訪ねて2012(9)リゼ トルコ唯一の茶畑

5. リゼ   9月28日(金)  リゼへ

いよいよ今日はトルコ唯一の茶畑の街、リゼへ行く。何だか気持ちが高鳴る。ここまで来るのは本当に長かった。イスタンブールに入ってから既に1週間以上が過ぎていた。ホテルには既にトラブゾンに長期滞在する唯一の日本人?Kさんが迎えに来てくれていた。

Kさんは、昨年日本の地方都市のお役所を定年退職した農業技師で、直ぐに海外での仕事を探し、ここトルコのトラブゾンへ赴任してきた。現在は野菜栽培の技術指導をしているとのこと。昔ヨルダンで一年滞在経験があるとは言うものの、大胆な転身に見えるが、ご本人は淡々としており、トラブゾン生活をエンジョイしているようだ。

Kさんご手配の車に乗り込み、黒海沿岸を一路リゼの街へ。と思ったが、途中で住宅街へ入り、男性をピックアップ。ウスマイルさん、現在は英語の教師だが、中央アジア滞在歴も長く、非常にユニーク人。Kさんとはバスの中で知り合い、それから交友関係が続いているとか。今日は英語の通訳として同行してもらう。やはりここでは英語は通じないらしい。

リゼの街はトラブゾンから車で1時間ちょっと。しかしもし私が単独でリゼを訪問しようとしていたら(実際トルコ入り時点ではそう考えていた)、バスでもっとかかっただろう。そしてリゼに到着しても、どこへ行ってよいやら、迷ったことだろう。全ては茶縁の世界。今日は真っ直ぐに、リゼの国立茶業試験場へ向かう。

トルコは世界5位の茶葉生産国と聞いているが、茶畑はほぼここリゼかその付近にしかない。そして茶業試験場も唯一ここにしかない。トルコでお茶を知ろうとすればここに来るしかないのだ。そして私は導かれるようにその建物に吸い込まれた。

茶業試験場と茶畑   

リゼの茶業試験場は1924年に創設された。その前年に、オスマントルコが倒れ、ケマルアタチュルクにより、トルコ共和国が建国される。これは偶然の一致ではない。その数年前に、ゼリヒ・デリンという人がグルジアへお茶の研究に派遣されている。当時グルジアはお茶の産地、今でも高級な紅茶のイメージがある。既に帝国末期、それまでの国民飲料だったコーヒーは手に入らなくなっていた。何故ならコーヒーの産地はイエメンのモカ。既に帝国内ではなくなっており、コーヒーは高価な輸入品となっていた。

建国直後のトルコにお金はなく、国民飲料として期待されたのがチャイ。試験場は苦難の歴史を歩みながら、茶樹を植え、製茶を行い、1930年代にはそれなりの商品となっていた。ただ最終的に国民に普及したのは50-60年代とも言われている。このような説明をしてくれたのは、この試験場の開発責任者、アイファンさん。彼は日本びいきのトルコ人の中でも日本への親近感が強く、実に丁寧に話をしてくれた。

試験場は研究室などがあり、お茶の研究開発を行っていた。外は公園のようになっていて、一般人も気軽に入って来てチャイを飲んでいる。この山の上からリゼの街と黒海が一望できる。そしてその急な傾斜地に茶が植えられている。何故ここに茶畑を作ったのか、それはこの急こう配では、普通の作物は難しく、この付近の人々は貧しい生活を強いられていたからだという。政府も貧困対策で茶を植えた。だから、他の地域には茶畑が無いということだろう。

そして茶畑を案内していたアイファンさんが突然「これは何だか分かるか」と聞いてきた。茶畑の上に黒い幕が張られていた。まるで日本茶の被せ、のような日差しを遮る物だった。「そう、これはセンチャ畑だ」。え、トルコに煎茶畑。一体なぜなのだろうか。トルコではチャイが国民飲料となったが、皆砂糖を大量に入れる。政府は角砂糖の大きさを半分にして、国民の健康維持を図ったが、それほど効果が無いらしい。

そこで政府はアイファンさんを日本政府の支援を得て、鹿児島の知覧へ派遣し、日本の煎茶の製法を取得させた。機械も一部持ち帰り、5年前から研究に取り組み、今では飲めるセンチャが出来て来ている。勿論土壌の改良なども行っている。国を挙げての取り組みなのだ。ここにも日本との繋がりがあり、そのご縁で今日の私がある。

山の上のランチに行って

昼時になると当然のようにアイファンさんが先導して、ランチへ出掛ける。トルコに来る前、こんな厚遇は夢にも思っていなかった。Kさんはじめ、日本の様々な人々のアイファンさんへの好意が、いま私に帰ってきている。まさにご縁だ。 

  

試験場よりさらに高い所へ行く。実に見晴らしが良い。観光用のレストランがあるが、見るだけにして去る。きっと食事が良くないのだろう。その横に、茶葉の集積場があった。ちょうど茶摘みを終えて、茶葉を運んできた農民と会った。農民と言っても運び屋さんか。若い男性たちだった。

摘んだ茶葉をここまで運んでくるのは相当の重労働。それでも賃金は決して良くないという。茶の生産だけでは食べていけずに、農閑期には出稼ぎへ出る人もいる。国の政策で茶を作っているのに、そしてこれだけ大量の茶葉を生産しているのに、食べていけない、相当複雑な事情が垣間見えた。

ランチは昔ながらの木の家屋を使ったレストランで食べた。天井が高く、吹き抜けのお店。爽やかな風が吹くととても気持ちが良い。だるまストーブが中央に置かれ、民芸品が並ぶ。食べ物もちょっと独特で、チーズフォンディウのようなドロッとした物を鍋から救い出し、パンにつけて食べた。この辺りの食文化はイスタンブールとはかなり違うのかもしれない。

茶工場と博物館

午後はアイファンさんの案内で、茶工場見学に向かう。トルコの茶業者は、国営のチャイクル1社でほぼ市場を独占している。最近民間企業も出てきたようだが、それでも85%以上のシェア握る。茶業試験場も国営なら、チャイクルも国営。アイファンさんの名刺にもチャイクルの文字が見える。実質的に一体なのだ。リゼの街には当然のようにチャイクルの工場がいくつもある。先ずは海沿いの最新鋭のきれいな工場に行って見た。だが、現在製茶は行われていないということで、何も見ずにあっさりと立ち去る。何だかもったいないが仕方がない。

次の工場は結構年季が入っていたが、工場は稼働していた。最初に工場の責任者を訪ね、挨拶する。するとやはりお茶が出てきた。そのお茶は例のセンチャ。日本人にはセンチャだろうと気を利かしてくれたのだ。だが、このセンチャには砂糖は入っていなかったが、ミントが交ぜられていた。「どうだ、味は」と聞かれたが、正直、うーん、という感じだ。「トルコ人は砂糖を入れない茶は飲まないが、ミントを入れれば飲むのではないかと期待している」とは責任者の弁だが、どうだろうか。

工場の責任者は広い個室に陣取り、如何にも街の名士といった雰囲気で貫録がある。リゼの街でチャイクルの工場長と言えば、相当の地位だろう。いや、全トルコでもかなりのステイタスかもしれない。ただ、その時代がかった対応は、トルコの茶業の前途を少し暗示しているようにも見えた。

工場に案内された。どこにでもある紅茶工場、ほぼ機械化され、人手はそれほどかかっていない。トルコのチャイは、細かく砕いて飲む。それ程厳しい基準で製茶しているようには見えなかった。一方センチャは日本から持って来た蒸機なども使い、力を入れて作っているように見えた。より美味しいお茶が出来、トルコの人がそれを飲むこと期待するばかりである。

一端試験場に戻り、また庭でチャイを飲む。兎に角一日中、チャイを飲んでいる。隣では格好いいお姐さん達がタバコをふかしながら携帯をいじり、チャイを飲む。今のトルコの一般的な風景だ。

街の中心部にある博物館へも行った。ここはチャイクルの博物館であるが、国の博物館と言ってもいい。初期の製茶機械など様々な物が展示されていたが、残念ながらトルコ茶の歴史についてはそれ程展示は無かった。もし一人でやって来て、ここへ来ても何も分からなかったと改めて思う。茶縁に感謝するばかりだ。

アイファンさんが時計を気にした。実は彼はこれからイスタンブールへ出張する。そんな最中に我々と一日付き合ってくれた。感謝してもしきれない。彼をトラブゾンの空港まで送り、我々も帰路に着いた。





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