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スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(7)メダン散策

8月31日(土)
メダン散策

今朝はもう行くところもないので、適当に歩いてみる。当然これまでは違う道を歩くのだが、何だか引き寄せられるものがある。ずるずると歩いて行くと、マーケットがあり、何だかヒンズー寺院が見えてきた。そしてその横にはゲートもあり、リトルインディア、という文字も見えている。ここにもリトルインディアがあるのか。しかしこれは最近政府が観光誘致か何かで作ったゲートらしい。

 

ちょうどMさんからメッセージがあり、インドネシアの華字新聞を探してほしいと言われたのだが、これまで新聞を売っているところを見かけた覚えがない。ところがここには英字紙が普通に売られており、何とその横には華字紙も並んでいるではないか。その意味は一体なんだろうか、と考えながら歩く。

 

まあ先日のペナン島のようなインド感はなく、リトルインディアは過ぎていく。折角なので大回りして帰ろうと迂回すると、かなり立派な邸宅が数軒見える。やはり華人が住んでいるようだ。高級住宅街はこの辺か。更に歩くと、お墓が見えてくる。華人のものもあるが、インドネシア系もここに埋葬されている。イスラムのお墓の習慣はよく分からない。

 

一昨日行った華人の食堂にもう一度行く。やはりここがうまいと思う。調理中の鍋の音がよい。炒飯を食べていると、おばさんが、『故郷福州の餃子』と言って、スープ餃子が登場する。これは常連のお客にしか出さないもので、冷凍してあったのを解凍したようだ。確かに福建の味がする。どのようにして故郷の味を守っているのだろうか。因みに息子はドライバーなので、次回は使ってやって、と言われる。そこは如何にも華人らしい。

 

午前中散策して午後は休む、これはもう日課となっている。その日課も今日でお終いだが、名残惜しいわけでもない。夕方また外へ出て、スーパーのお茶コーナーを当たるも、目新しいものはなかった。更には昨日も行った旧チャイナタウンへ出向き、見つけておいた1930年創業という老舗食堂へ踏み込んだ。

 

ここもウエートレスはインドネシア人などで華語は通じなかったが、おばあさんが理解してくれ、注文は出来た。鶏の細切り肉が乗った汁なし麺。これはあっさりとしていて、とてもいい味が出ているが、量はかなり多い。その分普通の麺より代金は2倍ぐらいしたが、一度食べる価値はある。豆腐の入ったスープもうまい。

 

メダンの街はスラバヤと比べて大きくはないが、何となく安心できる雰囲気がある。古い建物の壁には若者が書いたと思われるアニメなどがあり、かなり目を引く。インドネシアにはある意味で独特の文化もあるが、一方で日本のカルチャーがかなり取り入れられて、漢字の看板がなくても、ホッとできる部分なのかもしれない。

 

9月1日(日)
KLへ

今日はKLに戻る日になっていた。あのスラバヤの初日に買ったフライトにようやく乗る日がやってきたわけだ。僅か1週間のインドネシア滞在だったが、あまりに色々なことがあり、今や記憶のかなたとなっている。ただ今日は駅に泊まっているので、空港まで列車に乗れば着くという安心感は大きい。特に渋滞の多いインドネシアでは、このアドバンテージは絶大だ。

 

しかしこの空港鉄道、料金が高いわりにやはりなんとも使いにくい。機械だけを入れてしまい、乗客はついて行けていないため、係員がずっと横について、チケット購入を指導している。既に1年前に機械化され、『Manless』という見慣れない英語が掲げられているのだが、誰も信じてはいないだろう。それでも空港鉄道があるだけで有り難いと思わなければいけないだろうか。

 

1時間弱で空港に着いた。空港はかなり混んでおり、思ったよりチェックインに時間がかかる。マレーシア航空なら荷物を預けなくてよいサイズだが、LCCではそうもいかない。先日KL空港で、空港内ホテルに簡単に泊まれたのも、荷物を持っていたからであり、もし預けていたら、一度入国して荷物を取らなければならなかったかもしれない。

 

それでも空港に早く着き過ぎた(ちょうどよい時間の列車がなかった)ため、1時間前のKL行きフライトを見送ることになった。あれに乗れれば楽なのに、と思うが、空港に早めに着くのは鉄則なので、遅れるよりはずっと良い、と思うようにしている。今回のインドネシアの旅、まるで初めてきた国かのように混乱し、また稀有な体験もした。次はいつ来るだろうか。ルピアの現金が余っているから、早めに来ようか。いや、言語問題など、この国の壁は高く、解決しなければ成果は出ないことを肌で知る旅となった。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(6)チャイナタウンを探して

8月30日(金)
チャイナタウンを探して

翌朝もまずはスタバに行く。宿ではなぜか2人分の朝食券をくれるので、これでコーヒーとアイスティーを頼み、クロワッサンを2個ゲットできるので、ちょっと豪華な気分になる。これを部屋で食べてから、すぐに出掛ける。今日は昨日聞いたチャイナタウンの夜市を探しに行く。夜市だから夜行けばいいのだが、夜道を探す自信はないので、昼間に行く。

 

実は駅の横に大きな建物がある。そこは何とお寺だった。入って行こうとすると、数人が手を伸ばしてくる。ここに来る信心深い華人を当て込んだ物乞いだった。廟は真新しく、線香の煙がたなびく。マイノリティーである華人のプレゼンスの高まりにより、建てられたのかもしれない。

 

更に歩いて行くと、トイレに行きたくなり、繊維関係の店がたくさん入っているビルに紛れ込む。売り子はインドネシア人が殆どだが、オーナーに華人の顔が見られる。よくよく見ていると、漢字もチラホラみられる。華語を学ぶ学校の宣伝などもみられるのは、やはりニーズが出てきたからだろう。ドリンクスタンドでは抹茶飲料などが売られている。

 

2㎞以上歩くと、街から離れた感覚になる。するとその辺に漢字が増えてくる。個人の廟が出てきたり、最近できたと思われるお寺が出現したりする。恐らくは2000年以降、スハルトの呪縛が解かれた後に中国大陸辺りから進出してきた寺なのだろう。元々いる華人は嵐が過ぎ去ってもそのトラウマに苦しみ、簡単に看板を出したりしないように思われた。

 

ようやく夜市が開かれる場所まで到達する。勿論午前中なので、屋台は全て閉まっている。仕方なく、その横の食堂に入って、汁なし麺を頼んだ。この味は福建とあまり変わらない。飲み物として中国茶をオーダーしたが、ウエートレスにはそれが通じなかった。華語が話せない華人にも数人遭遇する。一方で、華語でカラオケを楽しむ老人たちも見た。華人も世代により分断されているという現実がここにある。この周辺、立派なマンションなども建っており、財力のある華人たちがいるのだろうと思わせる。

 

スラバヤで買ったシムカード、なぜかスマホの動きが鈍くなっている。もしここでスマホ地図が使えなくなると大変なので、急いで携帯ショップを探して、何とか補充を計る。その方法は分からなかったが、店に行くと若い店員が英語を普通に話し、3GBを4万ルピアで購入できた。どうやら地図を使い過ぎてしまったことが原因らしい。

 

宿に帰る時、さっきとは違う道を通ってみた。すると突然華人的雰囲気のある横道を見つけた。そこには古い観音廟があり、広福亭と書かれた同郷会館らしきものもあった。これぞ私が探していたものだったが、会館は閉まっており、情報を得ることは出来なかった。この付近がその昔、華人が多かった場所かもしれない。いや、今でもひっそりと住んでいるのだろう。

 

曇りだったとはいえ、往復6㎞以上を歩いたので、午後は完全に休息した。結局宿は臨時のつもりのステーションホテルに留まる。まあ住めば都、という感じだろうか。予約はネットがかなり安いのでそれで取ると、クレジットカード決済となり、手持ちのルピアを使機会はない。

 

夕方、また外をフラフラしている。既にほぼ今回の目的(取り敢えず雰囲気を味わう)は達成しており、一方それ以上の成果を得られる感触もないので、正直時間を持て余す。ただひたすら街を歩くのは深夜特急スタイルだろうか。すると、突然狭い横町に、華人食堂が並んでいるところに出た。

 

これまでこれほど纏まって中華食堂がある場所はなかった。こういうところをチャイナタウンと呼ぶのかもしれない。時刻は未だ5時前だったが、目に入った海南チキンライスの店に入る。ここの飯、チキンだけではなく、卵や豆腐なども付いており、かなり豪華な一品で満足だった。おばさんに聞いたら、客家だという。その昔からここで商売しているらしい。

 

この付近を歩いてみると、実は華人系の店ばかりだった。ここが昔からのチャイナタウン、午前中行ったのが、新興のチャイナタウンと言えるだろう。ここにもスラバヤ通という道があった。スラバヤに行く時、私もまず思い浮かべたのは、ユーミンの名曲、『スラバヤ通の妹へ』だった。だがあれはジャカルタにあるスラバヤ通が舞台で、スラバヤは関係ないと言われた。スラバヤにはスラバヤ通はないのだろう。インドネシアと日本の関係、これは簡単には理解できないほど複雑な過去がある。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(5)何とかメダンに到着したが

8月29日(木)
メダンで

振替便は朝8時半出発だったので、6時過ぎに起きて、ゆっくり朝食を食べて、40分前に宿を出た。もしこれがマレーシアに入国していたら、空港までの足を確保して出国審査に並び、ゲートまで来なくてはならないので、どうみても1時間以上節約できたと思う。ところが搭乗ゲートまで行くと長蛇の列。最後の荷物検査が非常にチンタラしているので驚く。

 

ちょうど私の後ろに来た人、昨日乗り継ぎゲートで同じ手続きをしていた。華語で話が通じたので話ながら待つ。彼はメダンの華人で、商売をしており、出張でスラバヤへ行った帰り。『インドネシア政府は本当に何も考えない。自国内移動に外国のエアラインを使われて平気なんだから』と至極まっとうなことをいう。

 

お茶について聞いてみると『メダンは華人も多いが、中国茶を飲む人は多いだろうか。郊外に茶畑があると言ってもあまりピンとこないし』という残念な回答だった。そんな会話をしている間に、荷物検査が終わり、ようやく搭乗できた。さすがに機内は空いており、ゆったり。約1時間でメダンに着いてしまうのだが、この1時間のための待ち時間は実に長かった。

 

メダンの空港に着くと、また入国審査がある。今回はスラバヤで買った帰りのチケットを差し出し、難なくビザ免除となった。それにしてもやはり出入国は面倒だ。インドネシアの国内線充実に期待したい。スラバヤと比べると、メダン空港は新しいのか、かなりきれいに見えた。

 

この空港には市内に向かう列車が走っていると聞いていたので、乗ってみることにした。ルピアは持っているので切符を買おうとした。係員の女性が英語で説明してくれるが、何と現金では買えず(現金の場合は別途カードを購入、このカード代として2万ルピア取られるという)、クレジットカードを使って機械で買うようにと言われる。インドネシアで現金が使えないとは。10万ルピアのチケットをカードで購入。

 

車両はきれいで座席もゆったりしているが、ドアは後ろの1両目しか開かなかった。乗客が少ないということだろう。発車すると、いきなり田舎の畑が広がる。駅はいくつかあるが乗ってくる人はあまりいない。約1時間かけて列車は市内に入り、メダン駅に到着した。この駅には古いローカル列車が停まっている。

 

実は初めての都市だったので、ホテルの予約をしていた。が、昨日の騒動で、泊ることは出来なかった。だが、朝の10時過ぎに駅に隣接したこのホテルに辿り着いたので、一応ノーショーにはならずに済んだ。そしてもう1泊予定していたので、そのままチェックインした。

 

すると、朝食が付いていますがどうしますか、と聞かれる。その朝食とはスタバのコーヒーとパンらしい。下の階にあるスタバに急いで行っていると、まだ朝食提供時間であり、もらうことが出来た。何となくうれしい。こちらのホテル代は支払ったが、KL空港では無料で泊っている。採算はどうなっていると考えるべきだろうか。この朝ごはん分が儲かった、ということだろうか。クロワッサンが意外とうまい。

 

部屋は掃除中だったが、一番奥だけが空いていたので、そこに入る。決して広くはなく、設備が整っているとも言えないが、寝るだけなら十分だろう。朝ご飯を食べて、ちょっと休んだ後、街の散策に出かける。取り敢えず駅周辺でいいホテルはないか探したが、一長一短で、決められない。

 

突然古めかしい洋風のがっしりした建物を見つける。そこに漢字を発見して思わず入っていく。Tjong A Fie’s Mansion、張躍軒という大物華人の家だったようで、博物館になっており、入場料を払って中に入ってみた。かなり立派な2階建ての屋敷であり、調度品なども豪華で、展示品の数も相当多く、勉強になる。やはりスラバヤに比べ、メダンは華人が目立つ。

 

受付の女性に『チャイナタウンはどこにあるのか』と聞いてみると、すぐ近くにあるが、夜市が立つ場所はここから3㎞ぐらい離れているという。まずはこの付近を散策してみる。だが、なぜか漢字の看板には出会わない。中国風の建物も見られない。この辺はスハルトの影響なのだろうか。

 

ずっと歩いて行くと、きれいなモスクや宮殿などが出てきた。取り敢えず宮殿の中を見学したが、特に目ぼしいものはなかった。モスクは外から写真を撮るだけにした。帰り掛け、漢字が少し見えた。どう見てもうまそうな食堂だったので入ってみた。華語は通じ、おばさんが珍しそうに話をしてくれた。焼そばがとてもいい味出している。これで食べるところも見つかったので一安心だ。

 

 

宿に帰ってゆっくり休む。早起きした上に暑い中を歩いたので相当に消耗した。夕方、駅の反対側にあるモールへ行く。かなりきれいで大きい。地下はロッテモールになっていたが、特に食べたい物もなく、ドリンクだけ買って宿に帰る。部屋にはなぜか無料のカップ麺が置かれていたので、それを食べて寝る。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(4)どこの国でもない一夜

8月28日(水)
どこの国でもない一夜

翌朝は早起きして6時にホテルをチェックアウト。頼んでいたタクシーに乗り込み空港に向かう。渋滞の激しいスラバヤ、飛行機に間に合うようにするには何時間前に出発すればよいのか分からず、4時間前にホテルを出た。案の定、途中でかなりの渋滞に巻き込まれたが、何とか1時間ちょっと空港まで辿り着いた。

 

今日は何とマレーシア航空でKLに飛び、そこからメダンを目指す。何故そんなことになったのか。それはそのルートが一番安かったからだ。インドネシア国内を旅するのに国際線に2回乗って行く。もうネタとしか思えないルートだがちょっと興味はあった。それにしても第2の都市から第4の都市に行く国内線直行便がないインドネシア。広すぎると言うべきか。

 

チェックインを済ませて、出国手続きに向かう。何と審査官は、あの3日前に長時間やり取りしてビザをくれた人だった。彼も私に気が付き、『なぜ3日で出国するんだ』と聞いてきたので、『安いから』と答えると、心底不思議そうな顔をしながら、出国スタンプを押してくれた。確かにこの行動、普通は理解できないだろうな。

 

そこまでは順調だったが、予定時間になっても搭乗のコールがない。どうやら飛行機の到着が遅れているらしいのだが、何のアナウンスもないので事態は掴めない。ようやく飛行機に乗ったのは予定時刻を1時間も過ぎていただろうか。そしてまた延々3時間もかけてKLを目指す。機内食を食べると眠りこける。

 

ふと気が付いてみると、すでにかなりの時間が経っており、よく考えてみると、KLでの乗り継ぎに間に合うのだろうか、心配になる。実は乗り継ぎ時間は1時間ちょっとしかないのだ。CAに聞いてみたが、空港でスタッフがアレンジしてくれる、としか言わない。どうみてもメダン行きの便に間に合いそうもない。それでも後続の便に乗ればよいと気楽に考えていた。

 

KLに着いた時にはすでに私が乗るべきメダン行きは出発してしまっていた。乗り継ぎカウンターに行くと、『明日の朝便に振替です』とあっさり言われ、唖然とする。『エアアジアなどの便があるだろう』と食い下がると、『他社便への振替はできません』と淡々と言われる。確かに空港も違うので面倒だが、ではどうするんだ。

 

係員は本当に淡々と、『あなたにはホテル1泊と食事3食が提供されます』という。そこで『私はマレーシアに入国したくないので、エアポートホテルに泊めてくれ』と言ってみるとすぐにアレンジしてくれたので、今晩は空港に泊まることになった。こんな経験できるものではないし、第一メダンの予定は何もないのだから気楽なものだ。因みに同じフライトで11名がここに泊め置かれたらしい。

 

そのエアポートホテルは空港の隅の方にあった。入ってみるときれいなところで、部屋は勿論個室、それなりに整っており、これまで私が泊まってきたホテルより良いのではと喜ぶ。Wi-Fiが若干弱かったが、マレーシアのシムカードも持っているので、問題は特に何もない。

 

設備の整ったマレーシアの空港でWi-Fiが弱かったのは、実は10日以上前に空港のシステムが全てダウンして、数日手作業で空港業務を回すという異常事態があった余波らしい。私がスラバヤに行く時も懸念されたが、既に治っていたので気にならなかったが、こんなところに影響があるとは。これはテロだったのだろうか。

 

ちょっと腹が減ったので、まずは1枚目のクーポンを使う。空港内のショップで20リンギ以内のご飯が選べる。麺からご飯まで様々な店があったのだが、貧乏性な私はぴったり20リンギの食べ物を探し、結果バーガーキングのセットになってしまった。まあ偶にはコーラにポテトも良いか。

 

それを食べていると、インド系の乗客が10人ほど入って来て、飲み物だけを頼み、自分たちが持ち込んだ食べ物を食べている。これ、良いのだろうか、と思ったが、食べられるものが限られているのなら、仕方がないということか。寛容な国マレーシア、店の採算はどうなるのか。しかし外食で苦労する人は多いのだろうな。

 

空港内を散策する。広いことは広いが特にすることもなく、夕日が落ちるのを眺めていた。私は今一体どこの国にいるのだろうか。インドネシアを出国したが、マレーシアには入国していないぞ。真空地帯に放り込まれているのか。推理小説に使えそうだな。夕飯はホテル内の食堂で食べる。ちょうどサッカー中継などがあり、それを見ながら黙々と済ませ、早めに就寝する。特に飛行機の音がうるさいなどはない。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(3)チャイナタウンに突撃

8月27日(火)
再び安渓会館、そしてチャイナタウンへ

翌日もう一度安渓会館を訪ねるべく、昨日と同じ道を歩く。道が分かっていればかなり早く着ける。この会館の向かいは墓地だった。きれいに墓石が並んでいる。昨日と違い、門は開いていたので、中に入って華語で呼びかけた。すると華語で返事があったので、それだけでもうホッとする。

 

ここの世話人さんが、相手をしてくれた。ただこの会館も20年ほど前にできた(その昔は別にあったかもしれないが)ということで、その歴史は古くはない。そして予想した通り、会員に茶を商っている人はいない、との答えが返ってきた。元々スラバヤは華人比率が低く、茶荘は成り立たなかったのではともいう。老人に聞いてみれば、もう少し昔のことが分かるかもしれない。日曜日の午前中に集まりがあるので参加してみれば、と言われたが、私にはその時間はなかった。

 

もう一度福建会館の場所を聞くも、昨日と同じ場所を言われたので、諦めた。これまでシンガポールやマレーシア、タイなどでは、同郷会館に行けば、なにがしかの情報は得られたのだが、ここインドネシアは様子が全く違うことを改めて思い知り、私の挑戦は終了した。

 

これまで聞いた限りにおいては、やはりスハルト時代の影響が大きく、華語禁止などにより昔の資料は何も残っておらず、華人自身も華人の歴史に関心を持つことはなかったと言ってよい。その中で120年前の華人茶商の足跡を追うことは、研究者などがいない限り困難だとはっきり言える。

 

昨晩、パサールアトム辺りがいわゆるチャイナタウンだ、と教えられたので、そこまで歩いてみる。ホテルからはどんどん離れていく。その市場、前面は古い感じで、後ろは新しく付け足されたモールのようだった。特に華人色が強いとは感じられない。昨日教えてもらった地元料理、食堂で名前を言い食べて見るとどれもおいしい。侮れない、インドネシア。

 

別の道をトボトボ歩く。どこかからバスで帰れないか探したが、どれに乗れば良いか全くわからない。運転手に聞いてみても、私が行きたい場所が通じない。ふらふら歩いて行くと、昨日と同じような路地があり、そこはなぜかオアシスのように心地良い。本当に不思議な空間だ。

 

更には鉄道の線路も見えてきた。駅があるだろう方向に歩き出すと、線路沿いは低所得者が住むバラックのような家が多かった。庶民の暮らしといっても、この国には信じられないほどの格差があるのだろう。駅が見えてきたが、列車に乗るわけでもないので、また宿の方向に歩き出す。何とカメラのカードが満杯になり、写真も撮れなくなる。

 

かなりの疲れを覚えながら帰路に就いたが、途中で疲れがピークに達する。そこにリキシャーの運転手が声を掛けてきたので、遂に乗り物に乗ってみることにした。ホテル名は分かったようなのであとは料金交渉だ。向こうが指を3本出したので、こちらは1本だし、最後は2本で折り合った。これが高いのか安いのか分からないが、乗ってみるといい風が顔に当たり快適で、もう歩く気がしない。

 

午後気を取り直して出掛ける。ネットで検索したところ、チャイナタウンはあの市場の更に向こうにあることが分かり、リキシャーに乗ればさほどの労力もいらないことを知ったので、再チャレンジに出た。リキシャーがなかなかいなくて、少し歩いて拾う。やはりかなり遠い。

 

ようやく川を渡り、それらしい感じが出てくる。橋の所で車を降りた。赤い橋、ジュンバタン・メラ。確かインドネシア独立戦争の火ぶたが切られた歴史的な場所だ。その向こうには門が見え、ここがチャイナタウンだと分かる。古い建物が続き、港が近いためか、商店や倉庫が立ち並び、かなり活気がある。これぞ私が求めていた場所だった。

 

更に歩いて行くと、いつの間にか雰囲気がかなり変わり、アラブ人街に入っていた。狭い路地に店がひしめき、人の往来も多い。通りに車が列をなし、歩く人々も滞る。まるで映画のワンシーンのような光景だった。ここスラバヤが往時、貿易で栄えたと実感できる雰囲気がここにはある。

 

そこから大人しくリキシャーを探して帰ればよかったのだが、またフラフラ歩き出してしまう。かなり長い距離をひたすら歩いた。途中に沢山モスクがあり、英雄記念塔などもあった。何だか楽しくなり歩いてしまったのだが、かなりのダメージだった。最後はホテルマジャパヒまで歩きつく。日本軍占領時代の旧大和ホテル。歴史的な雰囲気はあり、かなり格調高くて、きれい。次回はここに泊まりたい。夜はフードコートで地元料理を満喫。疲れたのですぐに寝る。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(2)福建会館はいずこに

8月26日(月)
福建会館はいずこに

翌朝は天気も良かった。スラバヤにある安渓会館の住所という、ほんの僅かな情報、を基に調べを開始した。交通機関は全く分からないので、スマホ地図に住所を入れて歩き始める。道はかなり広く、横断は難しい。途中にA&Wがある。見るのは沖縄以来か。20分以上歩いたが、目的地は見つからない。地図上では着いているのだが、ここスラバヤでは漢字の看板が殆どない。英語もないので、この建物が安渓会館かどうかもわからず、しかも鍵がかかっていて、聞くこともできなかった。

 

周囲を歩いてみると、何だかお寺があるらしい。行ってみると、鄭和基金会と鄭和清真寺いう文字が見えて驚く。なんでここに鄭和が出てくるのだろうか。入り口から入ると、老人がいたので、華語で話しけると華語で返事があり、ホッとした。ここの創設者だという老人が、話をしてくれたが、このお寺と基金会は2000年頃に創設された比較的新しいものだった。

 

インドネシアにおける華人のプレゼンスは僅か5%程度で非常に低く、しかも何度も華人排斥運動が起こり、アジア通貨危機後の混乱でも、様々な困難があった。スハルト政権は30年以上に渡り華語を禁止したため、漢字の看板は極めて少なく、また今の30-50代の華人は華語を学習していないという。

 

そんな中でスハルト後にインドネシアのイスラム教徒との融和を図るために作られたのが、この施設だという。因みに鄭和とは明代に大航海をした人物だが、ここスラバヤに寄ってはいないらしい。ただ彼は雲南の回族出身で、イスラム教徒ということで、ここに名前が使われたという。

 

お茶について尋ねてみたが、ここスラバヤに中国茶を扱う茶荘は全くないという。恐らくは1960年代スハルトの弾圧があった頃までには、全ての個人の茶荘は無くなっていただろうともいう。現在華人、特に老人が飲んでいる茶は、スーパーなどで売っている中国茶になる。この茶もスラバヤで作られているものはない。

 

この付近一帯には、ほんの少し中国語の看板が見られる。中国語学習の場もあるようだ。だがそれ以外には漢字がない。先ほどの安渓会館について聞くと、恐らく明日は誰かいるだろうという。そして福建会館の場所を聞くと、正確な位置を教えてくれたので、今日はこちらを当たることにした。

 

だがこれもまた困難を極める。最初は道を間違えて路地に入り込んでしまう。そこで英語ができる人に言われて、その先の道を探す。教えられたとおりの建物の前まで来たが、こちらも看板はなく、門も閉ざされており確認しようもない。近所のおじさんに聞くと確かに華人の集会所だとは言うのだが、それ以上踏み込む余地がない。疲れ切って、宿の方へ歩いていく。

 

途中で、道端にあったファーストフード店のようなきれいな店に入る。スラバヤには屋台もいつも出ているが、どうも入る気になれない。この店、やはり言葉は通じずに、写真でメニューを選び、片言英語で何とか店員との意思疎通を図る。向こうもまさかここに外国人が来るとは思っておらず、かなり慌てていた。食べ物は意外に美味しく、甘いドリンクは無料で提供された。

 

そこから博物館があるというところまで歩いて行った。かなりの距離があるが、乗り物に乗れないので仕方がない。博物館は立派な建物の中にあったが、今日は閉まっているようだった。それでも囲いがないので大体の展示物は見えてしまう。あまり必要な物はなさそうだと判断して去る。

 

その後路地に紛れ込む。これがなかなか楽しい。意外と清潔なのはイスラムの伝統だろうか。鉢植えの植物が多く置かれ、鳥かごが掛けられているのは中国的かな。何となく風までさわやかに感じられてくる。インドネシア第2の都市であるスラバヤだが、やはり首都ジャカルタとは大きな違いがある。

 

一度宿で休息して、午後4時前に宿を出た。今日は先日KLで出会ったMさんの昔の同窓生を紹介してもらい、郊外のショッピングモールで待ち合わせていた。だが路上にタクシーはなく、向かいのモールの警備員に頼むと親切にも一生懸命探してくれて有難かった。

 

夕方のスラバヤ、かなりの渋滞になっていた。指定されたモールまで、約1時間もかかる。それでも車代は空港から来た時の半額だった。それにしても名前からしてでかいこのモール。本当に広くて驚く。2つのモールが繋がっており、ただ歩いても端まで2㎞ぐらいある感じだった。何とか落ち合うことが出来たのは奇跡的だ。

 

彼女はここで台湾人学校に勤めているという。台湾人学校といっても台湾人より現地華人の子弟が多いらしい。フードコートで地元の名物、ビーフボールとカレー、油条などをご馳走になる。これは確かにうまい。その後ご主人も合流して、スーパーで売られているお茶などを観察する。華人の雰囲気を出しているパッケージだが、中身はどうだろうか。更には実際にドリンクスタンドで薬用茶を買って飲んでみる。

 

ご主人が態々、宿まで車で送ってくれた。この夫婦は郊外に住んでおり、別々の車で通勤し、夜ここで落ち合って食事・買い物してから帰るらしい。ご主人からは現在のインドネシア情勢やスラバヤのことなど、非常に有意義な話を車中でたっぷり聞いた。こういうことがないと、現地に来ても何も分からないな、ということがよく分かった。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(1)スラバヤ空港の珍事

《スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019》  2019年8月25日-9月1日

インドネシアを訪ねたのはもう6年も前のこと。ジャカルタの渋滞に嫌気がさし、言語の通じなさを嘆いて、それ以来脚が遠のいていた。だが、台湾茶の歴史には必ずインドネシアが出てくる。今回は何の足掛かりもないまま、取り敢えずビザ免除にもなっているので、第2の都市スラバヤと、第4の都市メダンを訪ねてみることにした。かなり困難な旅が予想されるが、果たしてどうなるのか。

 

8月25日(日)
スラバヤで

KLを離陸したエアアジアに乗っていた。スラバヤまでの飛行時間は約3時間。そんなに遠いのかと思い地図を広げると、確かにジャワ島の東の端だから、遠いのだ。6年前は香港人のトミーの後ろに付いて、ジャカルタ入りしたのだが、今回は一人。しかも何の情報もない中を行く。ただ一つ、日本人はビザ免除になっているのが救いだった。

 

だがインドネシアはそれほど甘くはなかった。スラバヤ空港は大きくなく、すぐにイミグレに辿り着く。パスポートを出したところ、『帰りのチケットは?』と聞くではないか。『これからメダン経由でKLに戻るので帰りは未だ手配していない』というと、すぐに別室に案内されてしまった。これは恐ろしいことになるかもしれない。最悪KLに戻ることになるかも、と悪いことが頭を過り、緊張が走る。

 

それからさんざんすったもんだの挙句、ビザ免除のスタンプを得たのは1時間後だった。預けていた荷物も無事に回収できた。昔のインドネシアなら、わいろを要求されるところだろうが、今はきちんと正規の要求、手続きをしてくれたのは良かった。まあ、旅にはトラブルが付きものであり、また何とか解決法があるのだ、と久しぶりに旅の醍醐味を感じる。

 

出口を出て、まずはスマホシムカードを探す。色々と手続きがあるとか聞いていたのだが、あっという間に購入完了。すぐにスマホは起動した。そしておじさんがタクシー要るかと聞いてきたので、一応料金を聞くと、15万ルピア。ちょっと高そうだったので、断って背を向ける。するとすぐに言い値が下がり、見事にタクシーゲット。スラバヤ空港も市内行バスはないとのことで致し方ない。

 

スラバヤ郊外は緑豊かで快適だった。日曜日のせいか、道は比較的空いており、1時間弱で市内に予約しておいたホテルに入った。大型の古めのホテル、料金はそれほど高くなかったが、何だかビジネススイートという部屋に通される。入口に机があり一部屋だが、使うことはない。それでも居心地は悪くなさそうだ。

 

隣にショッピングモールがあるというので行ってみる。かなり小さな店が入っている、タイなどによく見られるタイプだ。両替所でもあれば、と思ったのだが、何とエスカレーター故障で上の階に登れず。ATMの機械に銀聯カードなどを差し込んでみたが、空港同様現金は出てこない。

 

急激に空腹を覚えたので、そのビルにあった吉野家に駆け込む。インドネシアで牛丼か。メニューを見ると、チキンやベジもある。私は迷わず、マヨ玉牛丼をチョイスした。ここでこれが食べられるとは何だか幸せだ。このメニュー、日本にはあるのだろうか。マヨ玉、やはり美味い。インドネシア入国初日にこれはないだろうか。

 

ホテルのフロントに聞くと、両替は1㎞ほど歩いたショッピングモールにあるというので、散歩がてら出掛けてみる。すでに日は暮れていたが、交通量は多く、信号などはないので歩行者にはかなり厳しい環境だ。それでもライトアップされた古い建物もあり、歴史を感じさせる。ようやくたどり着くと、そこは立派なモールで、日本関連の店もいくつもあった。

 

ただ両替所では『米ドルの旧札は両替しない』と言われてショック。空港では両替してくれたのになぜと聞いても取り合ってくれない。取り敢えず持っていたマレーシアリンギを両替した。さっきのモールでドリンクを買おうとしたが、レジが大行列だったので、こちらのスーパーで買う。既にインドネシアの国民飲料となっているポカリスエットは勿論、ビタミンウオーターなど日本製のドリンクが並んでおり、日本より安いのがよい。きっと生産はインドネシアで行われているのだろう。

 

部屋に帰って何気なくテレビを点けると、バドミントンの世界選手権を生中継で放送していた。昔バドミントンはインドネシアの国技とも呼ばれていたが、最近は日本の方が上回っている。男子の桃田は圧勝、女子の奥原はなぜかインド選手には勝てない。女子ダブルスは日本勢同士の対決となり、最後の男子ダブルスでインドネシアペアーが日本を下して、実況席も大騒ぎになった。こんなのをインドネシアで見られるとは面白い。

懐かしのインドネシア散歩2013(4)ジャカルタのチャイナタウンを歩く

3.ジャカルタ   残念なホテル

ホテルの外は屋台などが並ぶ下町。ホテルの中はきれいなロビー。アンバランスだ。フロントの男性はつっけんどんな対応で迎えたが、直ぐに上司の女性が出てきて笑顔で非常に良い対応をしていた。これは価格の割に良いと思ったのだが、部屋に入るとクーラーが効いておらず、暑い。慌ててつけたが、一向に効かない。フロントに電話したところ、修理の人が来たが、治らない。仕方なく部屋を替えてもらったが、それでも変わらない。後で聞くとジャカルタの古いビルはクーラーの効きが非常に悪いらしい。このホテルもきれいにしているが、古いビルを改装したのかもしれない。

仕方なく部屋が冷えるまで外へ出る。夕飯を食べようと思ったが、適当な場所がない。この辺りは日本人駐在員なら絶対に夜は歩かない場所だろう。私は歩くのは平気だが、疲れていたので、マックに入り、涼む。インドネシアのマックは予想外に高かった。セットで日本円500円以上した。日本並み、高級だ。客も多くはなかった。冷たいコーラを飲んで一息つく。

ホテルに帰ると部屋は何とか耐えられる程度に冷えていた。外は周囲に高い建物がなく、絶好の夜景なのだが、もうこのホテルチェーンに泊まることはないだろう。WIFIが繋がったことがせめてもの救いだった。

4月30日(火)   チャイナタウンを歩く

翌朝はビュッフェの朝食を食べる。宿泊客は中東系、インド系、そして中華系、韓国人もいて、インターナショナル、席がないほど超満員だった。やはり料金が安い割にはきれいなのが、集客の要因だろうか。

食後、外へ出る。チャイナタウンを目指した。グロドゥと呼ばれる地区が中華系の住むところと聞いていた。地図で見ると近かったが、ホテルから歩くと30分近くかかった。朝はそれほど暑くはなかったので助かる。グロッゥにはバンドン同様、漢字の看板はあまり見られなかった。大通りに面した場所にホテルの看板があったので、中へ入ってみた。フロントで普通話を使い話しかけたが返事はなかった。

すると横にいたおばさんが『どっから来たんだ』と普通話で問いかけてきた。そして色々と話した。彼女の父親は広東系で、若い頃から苦労して働いたが、インドネシア国籍がもらえず困った話。1965年の革命、1998年の通貨危機、いずれも華人は排斥され、辛酸をなめた。お金持ちはどこへでも脱出できるが、彼女のような庶民は『ただじっと嵐が過ぎるのを待つだけだった』ようだ。『華人は一度外へ出ればそこで骨を埋めるもの』という言葉が重かった。尚このホテルは1泊100元、中国大陸から商売のためにやってくる人々が泊まるらしい。今も夢を追いかける華僑がいるのだ。

それからぐるぐると歩いて見たが、狭い路地に家がぎっしり詰まっているところはチャイナタウンらしいが、漢字の看板もレストランなどで偶に見られるだけで、華人が住んでいるのかどうかわからないほど、同化していた。

バスに乗ってローソンへ行く

本日は午後にアポイントがあり、市の中心部へ向かう。タクシーは使いたくなかったので、バスで行くことにした。ホテル前の大通りにはバス専用レーンがあり、渋滞にも強そうだ。チケットは一律3500pのようで、言葉が出来なくても、行き先が分からなくても買えるから便利。高速バスウエイ、トランスジャカルタというらしい。

しかし便利ということは乗る人も多いということ。ホームは人で溢れており、一台目に乗り損なう。よく見るとこのバスにはいくつかの路線があり、赤いバス1番を選んで乗る。バスの中ほどは女性専用座席になっている。さすがイスラム教国。乗客に女性が多いのも頷ける。

バスは快適に市内を走る。結構乗り降りが多い。路面電車のように駅に表示があり、これなら不慣れな外国人でも十分に乗れる。サリナデパートの前で降りる。この付近は安宿街もあるが、日本企業が集まるジャパンクラブなどもあり、オフィスビル群が連なる。そこから脇の道へ入ってみる。なぜかそこにローソンがあった。

バンドンでは見かけなかったが、ジャカルタには数十店舗あるらしい。店内は日本と変わらないが、焼き鳥などを売っている。そして決定的に違うのは2階に飲食スペースがあったこと。そこはクーラーの効いた室内と屋外があり、WIFIは無料、電源まで完備されていた。学生やOLが食事をしたり、飲み物を飲みながら談笑している風景は日本にはないもの。

聞けば、外資の小売チェーン展開には制限が設けられているため、レストランのライセンスで運営されているとのこと。当然飲食スペースがあるわけだが、このスペースが日本にあればな、と羨む。尚インドネシアでは日本のように家に持ち帰って食べるより、その場で食べることが好まれるということもあるようだ。国によって事情は違うものだ。

用事を済ませてバスでホテルへ戻る。バスは本当に便利だ。ホテル近くを散策すると、小肥羊(中国で有名な火鍋チェーン)などという名前の中国料理屋があった。これは名前のパクリだろうが、漢字の看板の多い場所も見つけた。湖南料理の店があったので入ってみる。客は大陸から来た中国人と地元華人のようだ。普通話で注文できた。安くておいしい中華が簡単に食べられ満足。

5月1日(水)   ストライキ

翌朝はホテルでおいしい朝食を食べた。さすがノボテル、パンもうまい。喧噪のジャカルタだが、ここは別世界のように思える。80年代中国に留学していた頃、偶に外資系ホテルに入ると感じられたあの独特の感覚がある。

ホテルの周囲は昨日も歩いたチャイナタウンだが、再度散歩に出てみる。市場のように路上に野菜や雑貨を並べている路地がある。小さい店も色々とある。路地の奥には昔懐かしい中国の風景も点在している。そして奥の奥には中国式寺院もちゃんとあった。金徳院。朝からお参りする華人、そこで知り合いと話し込む人々、座り込む人々の姿が多く見られた。ようやく中国との接点が見つかったような気がした。

今日は午後2時にアポイントがあった。早めにバスに乗って行って、向こうでランチでも食べようとホテルを出た。そして昨日と同じようにバス停へ行ってみたが、陸橋からバス停へ降りるところが塞がっていた。そして誰一人いなかった。見てみるとバスも走っていない。これが昨日言われたストライキの影響だと分かったが、さてどうするか。

道路を走る車も少ない。困ったなと思っているとタクシーがやってきた。アポ先の場所を伝えたが英語は通じない。乗車拒否されるかと思ったが、先ずは乗り込む。そしてアポ先近くのホテル名を伝えると、気持ちよく出発してくれた。ところが市内中心部へ向かう道路はストライキ、デモ行進の影響で軒並み封鎖されていた。一時は行くことができないのではないかと思ったが、運転手が情報を集めて迂回、何とかホテルまでは到着した。この間1時間以上。デモ隊は一度も見なかった。

しかしアポ先のビルは見付からなかった。運転手も走り回って聞いてくれたが分からない。仕方なくアポ先へ電話を入れて指示を仰ぐ。私が思っていたよりかなり離れた場所にあったが、運転手は文句ひとつ言わずに動いてくれた。このタクシーはブルーバードという会社で、評判が良いようだ。有難い。

アポが終了して外へ出た。バスは動いているかもしれないと思い、バス停を探すが方向が分からなくなっていた。確かに一般バスは動いていたが、行き先すらよくわからず乗れない。タクシーは皆乗車を拒否された。それも仕方ない、まだ道路封鎖もあるだろう。悪いことに雨が降ってきた。耐えきれずに近くにあったショッピングモールに逃げ込む。するとタクシーがやってきた。コタ地区まで5万pで行くというので乗り込む。帰りは道路封鎖も解除され、バスウエイも動いていた。かなりのスピードで飛ばしたタクシーは30分ほどでホテルを飛び越え、コタ駅まで来ていた。

コタ地区

コタ地区は発展するジャカルタの中では取り残されている場所かもしれない。駅も昔のままといった感じで、金子光晴などを想起する場合は、良いかもしれない。1929年金子光晴は妻の森三千代とここジャカルタのコタ地区に流れ着き、滞在した。「コタ地区は湿地帯」、道は荒れ果て雨が降れば歩けない状況だったと、書き記している。今日も雨上がりで、足元が濡れていた。

この地は旧バタビアで港に近く、オランダ時代の遺物も残っている。おしゃれなカフェも出来ているが、観光客にように入って行く気にはなれない。バタビア時代に活気のあった港も、今となっては寂しい限り。ファタヒラ広場に連なるコロニアルな建築物が今では博物館となって、その寂しさを一層際立たせている。

雨上がりの夕暮れ時、ジャカルタ湾を眺めようと港沿いに歩いて見たが、古い倉庫などに遮られ、とうとう海を見ることが出来なかった。車ばかりが多くて歩く人はまばら。何だか泥沼の人生に吸い込まれていくよう。すっかり暗くなり、歩いてホテルへ戻る途中、麺屋へ寄る。何だか具だくさんのスープ麺を啜りながら、昔この辺りへ流れてきた日本人の気分に浸る。

5月2日(木)   快適なホテル

インドネシア滞在最後の日。朝ゆっくり起きる。チャイナタウンにあるノボテル、ここは寒いぐらいにクーラーが効いており、フランス系らしいおしゃれな内装が良い。ノボテルのアコーグループはアジア展開も活発で、安定感がある。よく見るとこのホテルの斜向かいにも、グランドメルキュールという同じグループの別ブランドのホテルがあった。

部屋もそこそこ広く、清潔感がある。窓からの景色も悪くない。これで朝食が付いて日本円6000円は安い。昨年12月にオープンしたばかりだから、キャンペーン中のようだが、お得感がある。ところが翌日も泊まりたいと思ってネットで調べると、明日の料金は8000円になっており、一旦保留して外へ出たが、帰って来て再度見てみると今日と同じ料金になっていたので泊まったのである。お客が来なければ当日料金を下げる、他のホテルにも欲しいサービスだ。

朝ごはんをたらふく食べる。このような快適なホテルに泊まり、ゆっくり活動し、優雅に朝飯を食べる。日々旅を続ける私にとっての贅沢な休日なのである。ホテルの横にはセブンイレブンが併設されており、飲み物などを買うにも便利。

大きな銅鑼の音が聞こえてきた。新聞は昨日の全国100万人デモの様子を伝えていたので、今日はこの地区にもやって来たのかと、外へ飛び出す。ところがよく見てみると中学生か高校生の一団がぞろぞろ行進していた。一体なんだろうか、学生にも不満があるのだろうか。

空港

ホテルをチェックアウトして、空港へ向かう。空港までバスか何かあればよいのだが、近くに空港バスは走っていない、とうことで、ホテルのタクシーを使う。午後3時前のフライトがだが、ジャカルタの交通渋滞を考えると、相当早めに出ておかないと落ち着かない。11時には車に乗り込む。

だが案に相違して、空港までの道は比較的空いていた。僅か30分で到着してしまったのだ。料金も15万p、思ったほど高くはなかった。安堵感あり。空港も予想外に空いていて、チェックインもスムーズ。ここに来て何だか拍子抜け。

時間が相当あったので、喫茶店に入り、コーヒーとトーストを頼む。これが妙に甘いが、妙に美味い。WIFIは繋がるので、ずっとネットに見入る。トイレに行くと、空港内の床に座り込んでいるインドネシア人が沢山いた。椅子よりも床の上が落ち着くのだろうか。今回はインドネシア人の普通の生活に接する機会は殆どなかった。香港でもメードとして沢山の人が働いているインドネシア人。その素顔を見るのは次回ということになるだろうか。





懐かしのインドネシア散歩2013(3)チアトルの茶畑へ

4月28日(日)  チアトルへ

昨晩の夕食会で皆さんに『茶畑、茶畑』と騒いでいたところ、Tのおばさんの一人が、『明日連れて行ってあげよう』と言ってくれた。これは有難い、おばさんは普通話も出来るので、コミュニュケーションにも不自由はない。

朝ホテルで迎えの車を待っていたが、約束の7時を過ぎても一向にやって来ない。ホテル前の道に出てみて、その訳が分かる。何と大量の自転車が道を占拠している。サイクリングの一団だが、果てしなく続いて行く。先日日本のテレビでガールダインドネシア航空の社長が山梨に来て、サイクリングしている映像を見た。その時は、観光イベントだと思っていたが、本当にインドネシアはサイクリングブームなのだろうか。この圧倒的な自転車を見ては、頷かざるを得ない。ただ後で皆から話を聞くと『あれは労働組合が動員を掛けているだけ。一種の福利厚生』と言われ、ちょっと納得。いずれにしても、健康には良いかもしれないが、市民からは交通渋滞を理由に不評。

Eが漸くやって来た。次におばさんを拾っていざ出発。日曜日の朝、こんなに早く出て来たのには訳がある。ここバンドンは比較的涼しく過ごしやすいため、空気の悪いジャカルタから週末になると多くの人々がバンドンに避暑にやってくる。彼らは我々がこれから行くチアトルの火山などを見学するため、毎週末大渋滞が起こっている、とのこと。自転車の次は車の渋滞か。

山道を登ると道沿いにホテルやレストランが並んでいた。確かに観光地なのだ。幸いまだ渋滞はない。片道一車線の山道、渋滞すれば身動きできなくなる。1時間ちょっとでチアトル火山へ到着。この火山の火口、思っていたより迫力があり、また美しい。午前9時を過ぎて続々と観光客が詰めかけて来る。

火口に沿って土産物屋が並ぶ。何となく素朴な風景だ。馬に跨って喜ぶ観光客。朝からトウモロコシやお菓子を頬張る人々。山の人々が売りに来ている感じだが、中には台湾人が経営している土産物屋まであった。オジサンはきれいない国語で話す。『12年前にやって来て、現地の嫁さんを貰い、有機農業を始めたんだ。ここの暮らしはのんびりしていていいよ。漢字の看板出しておくと中国人や台湾人によく声を掛けられる。珍しいのが良いんだよ』。確かにのんびりとあくせくせずに暮らすなら、こんな所が良いかもしれない。最後にオジサンは『こんな所でも、地元の人とは色々とあるんだ。簡単ではないよ、田舎は』とつぶやいた。

ついに茶畑へ

そしてチアトルの火口から先ほど来た道とは別の道を降りていく。10分も走ると茶畑が見えてきた。これは規模が大きい。驚いた。私は茶畑を見学できればと上出来と考えていたが、おばさんがこの辺に茶工場があるはずだから探そうという。

茶工場は直ぐに見つかった。だが今日は日曜日、工場は当然休みだと思っていた。ところが不思議なことに茶摘みは休みだが、工場は動いているというではないか。更に工場見学も歓迎だと言われ、招き入れられる。工場のおじさんがガイドとして付いてくれた。工場はかなり大きい。いわゆる大量生産の紅茶工場。だだっ広い。機械化は進んでいるが老朽化も。茶葉を自動で運ぶ工夫などもなされていた。昨日摘まれた茶葉が大量に寝かされている。

おばさんの通訳で話を聞く。1942年にできた工場だとか。そうだとすると日本占領下なのだろうか。恐らくはオランダ時代に作られた工場を日本が接収したのかもしれない。現在従業員は1500人、これも多い。工場内は100人程度で、あとは茶葉を摘む担当だと。如何に茶畑が広いとはいえ、これは正直かなり効率が悪い。紅茶が主体だが、緑茶も生産している。後で見ると、何と『Sencha』と書かれたパッケージがあった。日本からも注文があり、蒸し器を日本から持ち込んで生産しているとのこと。『ジャワストレートティ』という名称の缶飲料の原料もここから来ているようだ。

事務所で試飲もさせてくれた。BOPを豪快に淹れてくれる。香りは控えめ、味は悪くはなかった。基本的に90%以上を輸出する。ティパックの原料などになるものが多いのだろう。またここにも芽だけで作ったというWhite Teaがあった。こちらは淡い中にもしっかりとした味わいがある。

工場を離れて茶畑に繰り出す。ここは斜面ではなく、ほぼ平らな場所に広大な茶葉が存在する。向こうの方に山並みが見える。密集した茶畑がずっと続いている。観光客用に馬が用意されている。子供たちが馬に乗ってはしゃいでいた。その昔、茶葉を運ぶのに馬を使ったのだろうか。

因みにインドネシアと言えばコーヒーが有名。バタビアコーヒーが世界を席巻した時期もあった。一般インドネシア人の飲料として、茶は定着せずにコーヒーが残ったと言われた。勿論他の植民地と同様に、一番低級のダストのみを飲んでいたのだろう。オランダ時代のインドネシアのお茶の歴史、興味深い。是非今後勉強してみたい。

お昼はおばさんが行きつけのレストランへ。インドネシアの伝統的な家をレストランにしている。庭もある。吹き抜けの風が心地よい。隣に魚の養殖場があり、山の中としては格別に新鮮な魚が味わえるという。この辺は華人の味覚にマッチしている。魚ベースのスープは最高だった。何度もお替りしてしまった。そして焼き魚。まるで日本を思い出す味。太古の時代、日本とインドネシアは海で繋がっていた、ということだろうか。茶旅+グルメ、大いに満足した。

バンドンスキで

ホテルに帰り、一休みした。Tはこれから休暇でバリ島に行くといい、分かれる。今回は本当に彼の世話になった。そして何より面白い旅ができた。感謝。

 

夜は昔仕事上で知り合ったAさんと再会した。Aさんは学生時代インドネシア語を学び、現在はこの地の銀行経営に携わっている。インドネシアでは希少な日本人だと言える。

 

プラガ通りのバンドンスキという店に出向いた。ホテルからはそう多くはないが、歩いていくとそれなりの距離があった。プラガ通りはバンドンではおしゃれというか、画廊などもあり、絵描きが道端で絵を描くなど、少し洋風な雰囲気が漂う。

 

バンドンスキ、という店名が面白い。タイスキと呼ばれる鍋にあやかって付けられたものだろうか。実際食事の内容はあのタイスキと同じだった。ワゴンに乗せられた具材から食べたいものを取り、鍋に放り込む。このシンプルさが良い。Aさんは焼酎を持参し、氷を貰って飲み始める。持ち込み可、それもよい。

 

最近日本ではインドネシアが注目されており、ビジネス視察も増えている。だが、マスコミ報道と実際とはかなりの開きがあり、インドネシアのビジネスはそう簡単ではない。またその報道は首都ジャカルタ中心で、バンドンなどは念頭にない。労働、教育、政策がない政府など、経済成長という言葉とは裏腹に問題は多い。それでもインドネシアには可能性を感じる。日本に戻るつもりはない。Aさんの言葉には重みがある。

 

午後6時から店が閉店になるまで焼酎を飲み続けた。久しぶりに再会ということもあるが、アジアという視点で語ることは楽しい。日本での狭い議論は実にむなしく思われた。

 

4月29日(月)  AAに嫌われる

バンドン最終日。Tもいなくなり、今朝は一人で朝食、そして一人で散歩。ホテルを出るとすぐ横にガンダムショップを発見。こんなところでオタク文化にぶつかるとは。そういう目で見てみると、この街には日本のアニメあり、ガールズファッションありと、日本的なサブカルが溢れていた。何故AKBの姉妹グループがジャカルタにできたのか、分かる気がした。

そして昨日も歩いたバンドンのメインストリートを歩く。目的はアジアアフリカ会議の会場に入ることだ。過去2回、入れずにいた。今日は休みでないことを確認していたので、午前10時頃、行ってみた。ところが、ドアは閉まっていた。理由は全くわからない。私同様ここを訪れた観光客も納得がいかないという顔をしたのが、その場に数人いた。しかし如何ともし難い。ご縁がなかったということで諦めて去る。

ジャカルタに行く前に両替しようとしたが、両替所が見つからない。どうせ銀行に行くなら、CITIバンクのカードで現金を下ろしてみようと思い、歩いてショッピングモールへ行く。そこの地下にCITIがあることを確認していたので、問題なくルピーをゲットできると考えていたが、甘かった。ATMにカードを入れてもエラーになってしまう。そこにいた職員も首を傾げる。これまた仕方なく去る。実は後で香港のCITIに行って確認したところ、香港の制度が変更されてATMカードを海外で使用する場合には、事前登録が必要となっていたが、それを知らなかっただけだった。

駅の付近へ行くと倉庫街が見えた。倉庫の壁にはなぜか上手にアニメが描かれていた。いったい誰が描いたのだろうか。それにしても上手い。そういえばAA会議場のすぐに近くには画廊があり、路上で絵描きが絵を描いていた。その雰囲気はヨーロッパをイメージさせる。そのような文化があったのだろうか。オランダの影響か。ここバンドンには大学も多くあり、バンドン工科大学など優秀な学校も多いと聞く。

列車でジャカルタへ

午後1時にホテルをチェックアウト、荷物を引いて駅に向かう。切符を買った時に入った場所は実は裏口だった。ホテルからもっと近い場所に正面玄関がある。駅にはオランダベーカリーなどもあり、小さいながらも悪くない。

出発の40分も前にホームへ入る。既に私が乗る列車はそこにあった。バンドン、ジャカルタ間を実質ノンストップで走る特急だったのだ。そして全席が一等席。外国人だから売られたチケットではなく、はなからこれしか席がなかった。ようやく納得。座り心地は悪くない。

列車に乗客が乗り込み、ほぼ満員で出発。外国人に見える人はほとんどおらず、インドネシア人ばかり。子供も乗っていた。座席は広く、非常に快適。窓からは山や畑の風景が過ぎていく。これはなかなか良い列車旅だ。確か茶畑も見えると聞いていたので、目を凝らしてみていたつもりだが、見付からなかった。

車内販売もやってくる。きれいなお姐さんが注文を取る。私は頼まなかったが、食事を頼んでいる人もいた。見ていると料理はなかなか出てこない。結局ジャカルタ到着30分ぐらい前に食べている人もいた。これは偶々だろうか。

列車は途中で停まることもなく、ジャカルタ近郊まで来た。ここまではゆったりしていたが、そこからは各駅のように停まり、人々が下りて行った。私は一つの勘違いをしていた。この列車はコタという駅まで行くと。ところが無情にもひとつ前のガンビル駅で全員が下りた。私も下ろされた。チケットをよく見るとガンビルの文字が見えた。しまった。

さて困った。コタ駅からホテルの行き方を調べていたが、この駅がどこにあるのかすらわからない。そうか、各停に乗ってもう一駅行こうとしたが、駅員は外へ出てバスに乗れという。仕方なくバス停を探す。バス停はよくわからなかった。そこへちょうどタクシーが来たので手を上げると停まる。住所を見せて何とか乗り込む。夕方6時前の退勤ラッシュを予想したが、案外スピードを出していたがかなり走った。日が暮れていく。そして運転手は場所が分からないと言い出す。これは料金を割り増しする作戦か。仕草を見るとそうでもなさそうだ。さてまた困る。運転手も懸命に探す。コタ駅を通過して大体の位置をつかんだが、それからも分かり難い。ようやく見つけたそのホテルはかなり古びた街には場違いな40階建て。不思議なところだった。

懐かしのインドネシア散歩2013(2)華人の苦悩

4月27日(土)  漢字が無い街

翌朝、Tと朝食を食べる。Tは昨晩従弟のEと相談してくれたが、Eは土曜日の今日も忙しく、また茶畑の情報もあまりなく、進展はなかった。『今晩バンドンの親族が集まる予定だから、そこでなんか出て来るでしょう』というT。そう、そんなものだ。

二人でバンドン市内見学に行く。先ずはチャイナタウンを探そうと思ったが、Eからも『バンドンにはチャイナタウンはない。華人は点在して暮らしている』と聞いていたので、ホテルの近所を歩いて見ると、『華人菜館』と漢字で書かれたレストランがあった。午前10時でお客はいなかった。店員に普通話で話し掛けたが、全く反応しない。カウンターの向こうにいた60代の華人と思われる男性に話し掛けると流暢な普通話が返ってきた。

『インドネシアはスハルト時代に中国語禁止、華人学校も閉鎖された。今の30-50代の華人は基本的に普通話は出来ないよ』と簡単に説明してくれた。2000年以降、華人学校も再開され、漢字の看板を出すことも可能となったが、スハルト時代の弾圧の後遺症か、現地化が非常に進んだせいか、未だに中国語には抵抗があるという。これがインドネシアの華人史だ。その後街を歩いて見てが、本当に漢字はほとんど見当たらず、小さな看板が出ていても普通話が出来る人は限られていた。因みにレストランの味もかなり現地化していると、ここのオーナーは述べている。

昨日見付からなかった駅へ行く。実は反対方向に歩いてしまっただけで、駅はホテルから歩いて10分も掛からなかった。古びた小さな駅。何となく好感が持てた。『ジャカルタへ行く時は電車で行こう』と決め、明後日の切符を買う。紙を渡され、氏名など必要事項を書き込む。窓口では英語も通じて問題はなかったが、何故か一等車しか売ってくれなかった。6万p。これは外国人だからだろうか?

バンドンと言えば1955年、周恩来、ネルー、スカルノなど第三世界の盟主を集めたバンドン会議が開かれた場所。歴史の教科書を思い出し、その会場へも行ってみたくなった。市内と言っても大きくはない通りを歩いて行くと、ようやく会場が見付かったが、何と今日はイベントが開かれており、一般公開はされていなかった。残念。

巨大ショッピングモール

Tが言う。『確かバンドンには大きなショッピングモールがあるはずだ。そこには日本企業も出店している』と。行ってみることにした。だが場所は分からない。TがEに電話して、場所を聞き、タクシーに乗ってみた。運転手は英語は出来ないが、意味は通じたようだ。狭いバンドンなのに、何処をどう走っているのかさっぱり分からない。誤魔化されて遠回りされているようにも思えたが、どうやらこの街は一方通行が多いようで、イメージと反対方向へ行くこともある。その内、渋滞にはまる。バンドンでも渋滞か。なかなか進まない。理由は道が片道一車線で、多くの車がショッピングモールへ入るために並んでいたからだと分かったのはかなり時間が経ってからだった。

ショッピングモールの規模はかなり大きかった。建物前の広場ではイベントが開かれ、土曜日ということもあってか、人だかりが凄い。お客の層も若者や子供連れが多く、非常に活気がある。レストランも沢山あり、どこも満員の盛況。比較的空いているシンガポール系の麺屋に入ったが、『XX麺、1つ』という頼み方ではなく、『麺はこれ、具はこれ』と全て一つずつオーダーする方式に戸惑う。恐らくは街中と比較して料金が高いため、細かい価格設定をしたのだろうが、店員は片言の英語しか出来ず、コミュニケーションに苦労した。

このモールにはSogoとMujiが入居していた。Sogoはあくまでもブランドを借りているだけで日本企業ではないだろう。高級品を売るデパートのようになっていたが、お客は多くはなかった。一方無印良品が出て来ていたのは意外ではなかった。トルコのイスタンブールでも中国の田舎都市でも、今や無印を見ることは多い。無印の出店戦略はどのように決められているのだろうか。従来の日本企業とは明らかに違う何かがある。香港系などの動向を見ながら決めているように見えて、頼もしい。ただ殆ど全てを日本から持ち込み、日本より高い値段で売る戦略、これがヒットするのか、実に興味深い。

それにしてもモールに来るインドネシア人は何となく楽しそうだ。子供達も浮かれている。それは私が子供の頃にデパートへ行く、という感覚に似ているような気がした。何を買う訳でもない、アイスクリームを1つ食べたら十分満足だった。モールの中庭でクジャクが子供の人気を集めていた。遠い昔を思い出していた。

3世代の夕食会

夜、Eが迎えに来てくれた。住宅街の一角にあるレストラン、そこは漢字の看板はないが、バンドン在住華人が集う人気スポットだった。夕方6時前でも既に予約で一杯、辛うじて入り口付近に席が確保できた。すると次々にTの親戚が集まって来た。その数10名以上。

Eは料理の注文を済ませるとどこかへ消えてしまい、あとは皆適宜話を始める。私の横にはTの伯父さんの娘とその旦那、そして幼い女の子が座った。40代の旦那は英語で話し掛けて来る。インドネシアの経済情勢などを聞く。その向こうでは60代の二人のおばさんが何と広東語で話している。あれ、この一族は客家系ではなかったのか。聞けば、広東系の女性がTのおじさんの所にお嫁に来たのだそうだ。この二人のおばさんは私に対しては普通話をまさに普通に話してくる。数人いた幼い子供達は普通話は勿論、英語も出来ず、完全にインドネシア語のみで生活している。面白いのはTと親せきの会話。従弟たちとは全て英語、おじさん、おばさんとは普通話。この2世代が混ざって話すときは従弟たちが懸命に普通話を使おうとする。そこには既にルーツである客家語は出て来ない。

Eの妹は彼氏を連れてやって来ていた。親戚一同に顔見世だろうか。皆興味津々で話し掛けるが、それは全てインドネシア語。インドネシア語と言ってもバンドンの方言らしいが。この会の共通語はインドネシア語である。若い世代は中華系の学校に行けば、普通話も習うというが、今や基本はインドネシア語、そして英語だろうか。華人が生きていく上で必要な言語を習得するのであって、アイデンティティだけでは生きていけない。歴史がそうさせている面もある。

Eが自分の父親を連れて戻ってきた。たった今台湾から戻ったのだそうだ。華人の代表団に参加し、台湾の高官とも面談したという。元学校で普通話を教えていたというこの老人、一体どんな人なのだろうか。確かに普通話の発音は格別上手かった。娘がお父さんに彼氏を紹介している。これは意外と重要な場面に遭遇したのかもしれない。

料理は中華ではなく、インドネシア料理。華人も既に百年単位で暮らしていると、母国の味より、現地の味となるのだろうか。何だか焼き鳥が実に美味かった。日本の味にも近いようで、こちらの方が故郷を懐かしんだ感がある。